禅をした結果そういう気楽な心になれるのか迷った。
「気楽ではいけません。道楽にできるものなら、二十年も三十年も雲水《うんすい》をして苦しむものはありません」と宜道は云った。
彼は坐禅をするときの一般の心得や、老師《ろうし》から公案《こうあん》の出る事や、その公案に一生懸命|噛《かじ》りついて、朝も晩も昼も夜も噛りつづけに噛らなくてはいけない事やら、すべて今の宗助には心元なく見える助言《じょごん》を与えた末、
「御室《おへや》へ御案内しましょう」と云って立ち上がった。
囲炉裏《いろり》の切ってある所を出て、本堂を横に抜けて、その外《はず》れにある六畳の座敷の障子《しょうじ》を縁から開けて、中へ案内された時、宗助は始めて一人遠くに来た心持がした。けれども頭の中は、周囲の幽静な趣《おもむき》と反照《はんしょう》するためか、かえって町にいるときよりも動揺した。
約一時間もしたと思う頃宜道の足音がまた本堂の方から響いた。
「老師《ろうし》が相見《しょうけん》になるそうでございますから、御都合が宜《よろ》しければ参りましょう」と云って、丁寧《ていねい》に敷居の上に膝《ひざ》を突いた。
二人はまた寺を空《から》にして連立って出た。山門の通りをほぼ一丁ほど奥へ来ると、左側に蓮池《はすいけ》があった。寒い時分だから池の中はただ薄濁りに淀《よど》んでいるだけで、少しも清浄《しょうじょう》な趣《おもむき》はなかったが、向側《むこうがわ》に見える高い石の崖外《がけはず》れまで、縁に欄干《らんかん》のある座敷が突き出しているところが、文人画《ぶんじんが》にでもありそうな風致を添えた。
「あすこが老師の住んでいられる所です」と宜道は比較的新らしいその建物を指《ゆびさ》した。
二人は蓮池の前を通り越して、五六級の石段を上《のぼ》って、その正面にある大きな伽藍《がらん》の屋根を仰《あお》いだまま直《すぐ》左りへ切れた。玄関へ差しかかった時、宜道は
「ちょっと失礼します」と云って、自分だけ裏口の方へ回ったが、やがて奥から出て来て、
「さあどうぞ」と案内をして、老師のいる所へ伴《つ》れて行った。
老師というのは五十|格好《がっこう》に見えた。赭黒《あかぐろ》い光沢《つや》のある顔をしていた。その皮膚も筋肉もことごとく緊《しま》って、どこにも怠《おこたり》のないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただ唇《くちびる》があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛《ゆる》みが見えた。その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩《せいさい》が閃《ひら》めいた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。
「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生《ふぼみしょう》以前《いぜん》本来《ほんらい》の面目《めんもく》は何《なん》だか、それを一つ考えて見たら善《よ》かろう」
宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分と云うものは必竟《ひっきょう》何物だか、その本体を捕《つら》まえて見ろと云う意味だろうと判断した。それより以上口を利《き》くには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た。
晩食《ばんめし》の時宜道は宗助に、入室《にゅうしつ》の時間の朝夕《ちょうせき》二回あることと、提唱《ていしょう》の時間が午前である事などを話した上、
「今夜はまだ見解《けんげ》もできないかも知れませんから、明朝《みょうちょう》か明晩御誘い申しましょう」と親切に云ってくれた。それから最初のうちは、つめて坐《す》わるのは難儀だから線香を立てて、それで時間を計って、少しずつ休んだら好かろうと云うような注意もしてくれた。
宗助は線香を持って、本堂の前を通って自分の室《へや》ときまった六畳に這入《はい》って、ぼんやりして坐った。彼から云うといわゆる公案《こうあん》なるものの性質が、いかにも自分の現在と縁の遠いような気がしてならなかった。自分は今腹痛で悩んでいる。その腹痛と言う訴《うったえ》を抱《いだ》いて来て見ると、あにはからんや、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたらよかろうと云われたと一般であった。考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった。
同時に彼は勤《つとめ》を休んで、わざわざここまで来た男であった。紹介状を書いてくれた人、万事に気をつけてくれる宜道に対しても、あまりに軽卒な振舞《ふるまい》はできなかった。彼はまず現在の自分が許す限りの勇気を提《ひっ》さげて、公案に向おうと決心した。それがいずれのところに彼を導びいて、どんな結果を彼の心に持ち来《き
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