二つほど打ち鳴らした。そうして、ついと立って、廊下口を出て、奥の方へ進んで行った。今度は前と反対に、足音がだんだん遠くの方へ去るに従って、微《かす》かになった。そうして一番しまいにぴたりとどこかで留まった。宗助は坐《い》ながら、はっとした。彼はこの袴を着けた男の身の上に、今何事が起りつつあるだろうかを想像したのである。けれども奥はしんとして静まり返っていた。宗助と並んでいるものも、一人として顔の筋肉を動かすものはなかった。ただ宗助は心の中で、奥からの何物かを待ち受けた。すると忽然《こつぜん》として鈴を振る響が彼の耳に応《こた》えた。同時に長い廊下を踏んで、こちらへ近づく足音がした。袴を着けた男はまた廊下口から現われて、無言のまま玄関を下りて、霜《しも》の裡《うち》に消え去った。入れ代ってまた新らしい男が立って、最前の鐘を打った。そうして、また廊下を踏み鳴らして奥の方へ行った。宗助は沈黙の間に行われるこの順序を見ながら、膝《ひざ》に手を載《の》せて、自分の番の来るのを待っていた。
自分より一人置いて前の男が立って行った時は、ややしばらくしてから、わっと云う大きな声が、奥の方で聞えた。その声は距離が遠いので、劇《はげ》しく宗助の鼓膜を打つほど、強くは響かなかったけれども、たしかに精一杯《せいいっぱい》威を振《ふる》ったものであった。そうしてただ一人《いちにん》の咽喉《のど》から出た個人の特色を帯びていた。自分のすぐ前の人が立った時は、いよいよわが番が回って来たと云う意識に制せられて、一層落ちつきを失った。
宗助はこの間の公案に対して、自分だけの解答は準備していた。けれども、それははなはだ覚束《おぼつか》ない薄手《うすで》のものに過ぎなかった。室中《しつちゅう》に入る以上は、何か見解《けんげ》を呈しない訳に行かないので、やむを得ず納まらないところを、わざと納まったように取繕《とりつくろ》った、その場限りの挨拶《あいさつ》であった。彼はこの心細い解答で、僥倖《ぎょうこう》にも難関を通過して見たいなどとは、夢にも思い設けなかった。老師をごまかす気は無論なかった。その時の宗助はもう少し真面目《まじめ》であったのである。単に頭から割り出した、あたかも画《え》にかいた餅《もち》のような代物《しろもの》を持って、義理にも室中に入らなければならない自分の空虚な事を恥じたのである。
宗助は人のするごとくに鐘を打った。しかも打ちながら、自分は人並にこの鐘を撞木で敲《たた》くべき権能《けんのう》がないのを知っていた。それを人並に鳴らして見る猿のごとき己《おの》れを深く嫌忌《けんき》した。
彼は弱味のある自分に恐れを抱きつつ、入口を出て冷たい廊下へ足を踏み出した。廊下は長く続いた。右側にある室《へや》はことごとく暗かった。角を二つ折れ曲ると、向《むこう》の外《はず》れの障子に灯影《ひかげ》が差した。宗助はその敷居際《しきいぎわ》へ来て留まった。
室中に入るものは老師に向って三拝するのが礼であった。拝しかたは普通の挨拶《あいさつ》のように頭を畳に近く下げると同時に、両手の掌《てのひら》を上向《うえむき》に開いて、それを頭の左右に並べたまま、少し物を抱《かか》えた心持に耳の辺《あたり》まで上げるのである。宗助は敷居際に跪《ひざま》ずいて形《かた》のごとく拝を行なった。すると座敷の中で、
「一拝《いっぱい》で宜《よろ》しい」と云う会釈《えしゃく》があった。宗助はあとを略して中へ入った。
室の中はただ薄暗い灯《ひ》に照らされていた。その弱い光は、いかに大字《だいじ》な書物をも披見《ひけん》せしめぬ程度のものであった。宗助は今日《こんにち》までの経験に訴えて、これくらい微《かす》かな灯火《ともしび》に、夜を営なむ人間を憶《おも》い起す事ができなかった。その光は無論月よりも強かった。かつ月のごとく蒼白《あおじろ》い色ではなかった。けれどももう少しで朦朧《もうろう》の境《さかい》に沈むべき性質《たち》のものであった。
この静かな判然《はっきり》しない灯火の力で、宗助は自分を去る四五尺の正面に、宜道のいわゆる老師なるものを認めた。彼の顔は例によって鋳物《いもの》のように動かなかった。色は銅《あかがね》であった。彼は全身に渋《しぶ》に似た柿《かき》に似た茶に似た色の法衣《ころも》を纏《まと》っていた。足も手も見えなかった。ただ頸《くび》から上が見えた。その頸から上が、厳粛《げんしゅく》と緊張の極度に安んじて、いつまで経っても変る恐《おそれ》を有せざるごとくに人を魅《み》した。そうして頭には一本の毛もなかった。
この面前に気力なく坐《すわ》った宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。
「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」とたちまち云われた。
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