っしょに出て来た安井が、いかなる程度の人物になったかを、頭の中で描《えが》いて見た。描かれた画《え》は無論|冒険者《アドヴェンチュアラー》の字面《じづら》の許す範囲内で、もっとも強い色彩を帯びたものであった。
かように、堕落の方面をとくに誇張した冒険者《アドヴェンチュアラー》を頭の中で拵《こしら》え上げた宗助は、その責任を自身一人で全く負わなければならないような気がした。彼はただ坂井へ客に来る安井の姿を一目見て、その姿から、安井の今日《こんにち》の人格を髣髴《ほうふつ》したかった。そうして、自分の想像ほど彼は堕落していないという慰藉《いしゃ》を得たかった。
彼は坂井の家《いえ》の傍《そば》に立って、向《むこう》に知れずに、他《ひと》を窺《うかが》うような便利な場所はあるまいかと考えた。不幸にして、身を隠すべきところを思いつき得なかった。もし日が落ちてから来るとすれば、こちらが認められない便宜《べんぎ》があると同時に、暗い中を通る人の顔の分らない不都合があった。
そのうち電車が神田へ来た。宗助はいつもの通りそこで乗り換えて家《うち》の方へ向いて行くのが苦痛になった。彼の神経は一歩でも安井の来る方角へ近づくに堪《た》えなかった。安井をよそながら見たいという好奇心は、始めからさほど強くなかっただけに、乗換の間際《まぎわ》になって、全く抑《おさ》えつけられてしまった。彼は寒い町を多くの人のごとく歩いた。けれども多くの人のごとくに判然《はっきり》した目的は有《も》っていなかった。そのうち店に灯《ひ》が点《つ》いた。電車も灯火《あかり》を照《と》もした。宗助はある牛肉店に上がって酒を呑《の》み出した。一本は夢中に呑んだ。二本目は無理に呑んだ。三本目にも酔えなかった。宗助は背を壁に持たして、酔って相手のない人のような眼をして、ぼんやりどこかを見つめていた。
時刻が時刻なので、夕飯《ゆうめし》を食いに来る客は入れ代り立ち代り来た。その多くは用弁的《ようべんてき》に飲食《いんしょく》を済まして、さっさと勘定《かんじょう》をして出て行くだけであった。宗助は周囲のざわつく中に黙然《もくねん》として、他《ひと》の倍も三倍も時を過ごしたごとくに感じた末、ついに坐り切れずに席を立った。
表は左右から射す店の灯で明らかであった。軒先を通る人は、帽も衣装《いしょう》もはっきり物色する事ができた。けれども広い寒さを照らすには余りに弱過ぎた。夜は戸《と》ごとの瓦斯《ガス》と電灯を閑却《かんきゃく》して、依然として暗く大きく見えた。宗助はこの世界と調和するほどな黒味の勝った外套《マント》に包まれて歩いた。その時彼は自分の呼吸する空気さえ灰色になって、肺の中の血管に触れるような気がした。
彼はこの晩に限って、ベルを鳴らして忙がしそうに眼の前を往ったり来たりする電車を利用する考《かんがえ》が起らなかった。目的を有《も》って途《みち》を行く人と共に、抜目なく足を運ばす事を忘れた。しかも彼は根の締《しま》らない人間として、かく漂浪《ひょうろう》の雛形《ひながた》を演じつつある自分の心を省《かえり》みて、もしこの状態が長く続いたらどうしたらよかろうと、ひそかに自分の未来を案じ煩《わずら》った。今日《こんにち》までの経過から推《お》して、すべての創口《きずぐち》を癒合《ゆごう》するものは時日であるという格言を、彼は自家の経験から割り出して、深く胸に刻みつけていた。それが一昨日《おととい》の晩にすっかり崩《くず》れたのである。
彼は黒い夜の中を歩るきながら、ただどうかしてこの心から逃れ出たいと思った。その心はいかにも弱くて落ちつかなくって、不安で不定で、度胸がなさ過ぎて希知《けち》に見えた。彼は胸を抑《おさ》えつける一種の圧迫の下《もと》に、いかにせば、今の自分を救う事ができるかという実際の方法のみを考えて、その圧迫の原因になった自分の罪や過失は全くこの結果から切り放してしまった。その時の彼は他《ひと》の事を考える余裕《よゆう》を失って、ことごとく自己本位になっていた。今までは忍耐で世を渡って来た。これからは積極的に人世観を作り易《か》えなければならなかった。そうしてその人世観は口で述べるもの、頭で聞くものでは駄目であった。心の実質が太くなるものでなくては駄目であった。
彼は行く行く口の中で何遍も宗教の二字を繰り返した。けれどもその響は繰り返す後《あと》からすぐ消えて行った。攫《つか》んだと思う煙が、手を開けるといつの間にか無くなっているように、宗教とははかない文字であった。
宗教と関聯《かんれん》して宗助は坐禅《ざぜん》という記憶を呼び起した。昔し京都にいた時分彼の級友に相国寺《しょうこくじ》へ行って坐禅をするものがあった。当時彼はその迂濶《うかつ》を笑って
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