いた。「今の世に……」と思っていた。その級友の動作が別に自分と違ったところもないようなのを見て、彼はますます馬鹿馬鹿しい気を起した。
 彼は今更ながら彼の級友が、彼の侮蔑《ぶべつ》に値《あたい》する以上のある動機から、貴重な時間を惜しまずに、相国寺へ行ったのではなかろうかと考え出して、自分の軽薄を深く恥じた。もし昔から世俗で云う通り安心《あんじん》とか立命《りつめい》とかいう境地に、坐禅の力で達する事ができるならば、十日《とおか》や二十日《はつか》役所を休んでも構わないからやって見たいと思った。けれども彼はこの道にかけては全くの門外漢であった。したがって、これより以上|明瞭《めいりょう》な考《かんがえ》も浮ばなかった。
 ようやく家《うち》へ辿《たど》り着いた時、彼は例のような御米と、例のような小六と、それから例のような茶の間と座敷と洋灯《ランプ》と箪笥《たんす》を見て、自分だけが例にない状態の下《もと》に、この四五時間を暮していたのだという自覚を深くした。火鉢《ひばち》には小さな鍋《なべ》が掛けてあって、その葢《ふた》の隙間《すきま》から湯気が立っていた。火鉢の傍《わき》には彼の常に坐る所に、いつもの座蒲団《ざぶとん》を敷いて、その前にちゃんと膳立《ぜんだて》がしてあった。
 宗助は糸底《いとぞこ》を上にしてわざと伏せた自分の茶碗と、この二三年来朝晩使い慣《な》れた木の箸《はし》を眺《なが》めて、
「もう飯は食わないよ」と云った。御米は多少不本意らしい風もした。
「おやそう。余《あんま》り遅いから、おおかたどこかで召上《めしや》がったろうとは思ったけれど、もしまだだといけないから」と云いながら、布巾《ふきん》で鍋《なべ》の耳を撮《つま》んで、土瓶敷《どびんしき》の上におろした。それから清《きよ》を呼んで膳《ぜん》を台所へ退《さ》げさした。
 宗助はこういう風に、何ぞ事故ができて、役所の退出《ひけ》からすぐ外へ回って遅くなる場合には、いつでもその顛末《てんまつ》の大略を、帰宅早々御米に話すのを例にしていた。御米もそれを聞かないうちは気がすまなかった。けれども今夜に限って彼は神田で電車を降りた事も、牛肉屋へ上った事も、無理に酒を呑《の》んだ事も、まるで話したくなかった。何も知らない御米はまた平常の通り無邪気にそれからそれへと聞きたがった。
「何別にこれという理由《わけ》もなかったのだけれども、――ついあすこいらで牛《ぎゅう》が食いたくなっただけの事さ」
「そうして御腹《おなか》を消化《こな》すために、わざわざここまで歩るいていらしったの」
「まあ、そうだ」
 御米はおかしそうに笑った。宗助はむしろ苦しかった。しばらくして、
「留守に坂井さんから迎いに来なかったかい」と聞いた。
「いいえ、なぜ」
「一昨日《おととい》の晩行ったとき、御馳走《ごちそう》するとか云っていたからさ」
「また?」
 御米は少し呆《あき》れた顔をした。宗助はそれなり話を切り上げて寝た。頭の中をざわざわ何か通った。時々眼を開けて見ると、例のごとく洋灯《ランプ》が暗くして床の間の上に載《の》せてあった。御米はさも心地好さそうに眠っていた。ついこの間までは、自分の方が好く寝られて、御米は幾晩も睡眠の不足に悩まされたのであった。宗助は眼を閉じながら、明らかに次の間の時計の音を聞かなければならない今の自分をさらに心苦しく感じた。その時計は最初は幾つも続けざまに打った。それが過ぎると、びんとただ一つ鳴った。その濁った音が彗星《ほうきぼし》の尾のようにほうと宗助の耳朶《みみたぶ》にしばらく響いていた。次には二つ鳴った。はなはだ淋《さみ》しい音であった。宗助はその間に、何とかして、もっと鷹揚《おうよう》に生きて行く分別をしなければならないと云う決心だけをした。三時は朦朧《もうろう》として聞えたような聞えないようなうちに過ぎた。四時、五時、六時はまるで知らなかった。ただ世の中が膨《ふく》れた。天が波を打って伸びかつ縮んだ。地球が糸で釣るした毬《まり》のごとくに大きな弧線《こせん》を描《えが》いて空間に揺《うご》いた。すべてが恐ろしい魔の支配する夢であった。七時過に彼ははっとして、この夢から覚《さ》めた。御米がいつもの通り微笑して枕元に曲《かが》んでいた。冴《さ》えた日は黒い世の中を疾《とく》にどこかへ追いやっていた。

        十八

 宗助《そうすけ》は一封の紹介状を懐《ふところ》にして山門《さんもん》を入った。彼はこれを同僚の知人の某《なにがし》から得た。その同僚は役所の往復に、電車の中で洋服の隠袋《かくし》から菜根譚《さいこんたん》を出して読む男であった。こう云う方面に趣味のない宗助は、固《もと》より菜根譚の何物なるかを知らなかった。ある日一つ車の腰掛に膝を並べ
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