猛烈な自然の力の狂う間に、いつもより明らかな日がのそりと出ていた。風は洋袴《ズボン》の股《また》を冷たくして過ぎた。宗助にはその砂を捲《ま》いて向うの堀の方へ進んで行く影が、斜めに吹かれる雨の脚《あし》のように判然《はっきり》見えた。
 役所では用が手に着かなかった。筆を持って頬杖《ほおづえ》を突いたまま何か考えた。時々は不必要な墨を妄《みだ》りに磨《す》りおろした。煙草《たばこ》はむやみに呑んだ。そうしては、思い出したように窓硝子《まどガラス》を通して外を眺めた。外は見るたびに風の世界であった。宗助はただ早く帰りたかった。
 ようやく時間が来て家《うち》へ帰ったとき、御米は不安らしく宗助の顔を見て、
「どうもなくって」と聞いた。宗助はやむを得ず、どうもないが、ただ疲れたと答えて、すぐ炬燵《こたつ》の中へ入ったなり、晩食《ばんめし》まで動かなかった。そのうち風は日と共に落ちた。昼の反動で四隣《あたり》は急にひっそり静まった。
「好い案排《あんばい》ね、風が無くなって。昼間のように吹かれると、家に坐っていても何だか気味が悪くってしようがないわ」
 御米の言葉には、魔物でもあるかのように、風を恐れる調子があった。宗助は落ちついて、
「今夜は少し暖《あっ》たかいようだね。穏《おだ》やかで好い御正月だ」と云った。飯を済まして煙草《たばこ》を一本吸う段になって、突然、
「御米、寄席《よせ》へでも行って見ようか」と珍らしく細君を誘った。御米は無論|否《いな》む理由を有《も》たなかった。小六は義太夫などを聞くより、宅《うち》にいて餅《もち》でも焼いて食った方が勝手だというので、留守を頼んで二人出た。
 少し時間が遅れたので、寄席はいっぱいであった。二人は座蒲団《ざぶとん》を敷く余地もない一番|後《うしろ》の方に、立膝《たてひざ》をするように割り込まして貰った。
「大変な人ね」
「やっぱり春だから入るんだろう」
 二人は小声で話しながら、大きな部屋にぎっしり詰まった人の頭を見回《みまわ》した。その頭のうちで、高座《こうざ》に近い前の方は、煙草の煙で霞《かす》んでいるようにぼんやり見えた。宗助にはこの累々《るいるい》たる黒いものが、ことごとくこう云う娯楽の席へ来て、面白く半夜を潰《つぶ》す事のできる余裕のある人らしく思われた。彼はどの顔を見ても羨《うらや》ましかった。
 彼は高座の方を正視して、熱心に浄瑠璃《じょうるり》を聞こうと力《つと》めた。けれどもいくら力めても面白くならなかった。時々眼を外《そ》らして、御米の顔を偸《ぬす》み見た。見るたびに御米の視線は正しい所を向いていた。傍《そば》に夫のいる事はほとんど忘れて、真面目《まじめ》に聴いているらしかった。宗助は羨《うら》やましい人のうちに、御米まで勘定《かんじょう》しなければならなかった。
 中入の時、宗助は御米に、
「どうだ、もう帰ろうか」と云い掛けた。御米はその唐突《とうとつ》なのに驚ろかされた。
「厭なの」と聞いた。宗助は何とも答えなかった。御米は、
「どうでもいいわ」と半分夫の意に忤《さか》らわないような挨拶《あいさつ》をした。宗助はせっかく連れて来た御米に対して、かえって気の毒な心が起った。とうとうしまいまで辛抱《しんぼう》して坐っていた。
 家《うち》へ帰ると、小六は火鉢《ひばち》の前に胡坐《あぐら》を掻《か》いて、背表紙《せびょうし》の反《そ》り返るのも構わずに、手に持った本を上から翳《かざ》して読んでいた。鉄瓶《てつびん》は傍《わき》へ卸《おろ》したなり、湯は生温《なまぬ》るく冷《さ》めてしまった。盆の上に焼き余りの餅が三切《みきれ》か四片《よきれ》載《の》せてあった。網の下から小皿に残った醤油の色が見えた。
 小六は席を立って、
「面白かったですか」と聞いた。夫婦は十分ほど身体《からだ》を炬燵《こたつ》で暖めた上すぐ床へ入った。
 翌日になっても宗助の心に落ちつきが来なかった事は、ほぼ前の日と同じであった。役所が退《ひ》けて、例の通り電車へ乗ったが、今夜自分と前後して、安井が坂井の家へ客に来ると云う事を想像すると、どうしても、わざわざその人と接近するために、こんな速力で、家《うち》へ帰って行くのが不合理に思われた。同時に安井はその後どんなに変化したろうと思うと、よそから一目彼の様子が眺《なが》めたくもあった。
 坂井が一昨日《おととい》の晩、自分の弟《おとと》を評して、一口に「冒険者《アドヴェンチュアラー》」と云った、その音《おん》が今宗助の耳に高く響き渡った。宗助はこの一語の中に、あらゆる自暴と自棄と、不平と憎悪《ぞうお》と、乱倫と悖徳《はいとく》と、盲断と決行とを想像して、これらの一角《いっかく》に触れなければならないほどの坂井の弟と、それと利害を共にすべく満洲からい
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