は好いでしょう」と云ったので、相談はほぼその座で纏《まと》まった。
宗助はそこで辞して帰ればよかったのである。また辞して帰ろうとしたのである。ところが主人からまあ緩《ゆっ》くりなさいと云って留められた。主人は夜は長い、まだ宵《よい》だと云って時計まで出して見せた。実際彼は退屈らしかった。宗助も帰ればただ寝るよりほかに用のない身体《からだ》なので、ついまた尻を据《す》えて、濃い煙草《たばこ》を新らしく吹かし始めた。しまいには主人の例に傚《なら》って、柔らかい座蒲団《ざぶとん》の上で膝《ひざ》さえ崩《くず》した。
主人は小六の事に関聯して、
「いや弟《おとと》などを有っていると、随分|厄介《やっかい》なものですよ。私《わたくし》も一人やくざなのを世話をした覚がありますがね」と云って、自分の弟が大学にいるとき金のかかった事などを、自分が学生時代の質朴《しつぼく》さに比べていろいろ話した。宗助はこの派出好《はでずき》な弟が、その後どんな径路を取って、どう発展したかを、気味の悪い運命の意思を窺《うかが》う一端として、主人に聞いて見た。主人は卒然
「冒険者《アドヴェンチュアラー》」と、頭も尾《しっぽ》もない一句を投げるように吐いた。
この弟は卒業後主人の紹介で、ある銀行に這入《はい》ったが、何でも金を儲《もう》けなくっちゃいけないと口癖のように云っていたそうで、日露戦争後間もなく、主人の留めるのも聞かずに、大いに発展して見たいとかとなえてついに満洲へ渡ったのだと云う。そこで何を始めるかと思うと、遼河《りょうが》を利用して、豆粕大豆《まめかすだいず》を船で下《くだ》す、大仕掛な運送業を経営して、たちまち失敗してしまったのだそうである。元より当人は、資本主ではなかったのだけれども、いよいよという暁《あかつき》に、勘定して見ると大きな欠損と事がきまったので、無論事業は継続する訳に行かず、当人は必然の結果、地位を失ったぎりになった。
「それから後《あと》私《わたし》もどうしたかよく知らなかったんですが、その後《のち》ようやく聞いて見ると、驚ろきましたね。蒙古《もうこ》へ這入って漂浪《うろつ》いているんです。どこまで山気《やまぎ》があるんだか分らないんで、私も少々|剣呑《けんのん》になってるんですよ。それでも離れているうちは、まあどうかしているだろうぐらいに思って放っておきます。時たま音便《たより》があったって、蒙古《もうこ》という所は、水に乏しい所で、暑い時には往来へ泥溝《どぶ》の水を撒《ま》くとかね、またはその泥溝の水が無くなると、今度は馬の小便を撒くとか、したがってはなはだ臭いとか、まあそんな手紙が来るだけですから、――そりゃあ金の事も云って来ますが、なに東京と蒙古だから打遣《うちや》っておけばそれまでです。だから離れてさえいれば、まあいいんですが、そいつが去年の暮突然出て来ましてね」
主人は思いついたように、床の柱にかけた、綺麗《きれい》な房のついた一種の装飾物を取りおろした。
それは錦の袋に這入《はい》った一尺ばかりの刀であった。鞘《さや》は何《なに》とも知れぬ緑色の雲母《きらら》のようなものでできていて、その所々が三カ所ほど巻いてあった。中身は六寸ぐらいしかなかった。したがって刃《は》も薄かった。けれども鞘の格好《かっこう》はあたかも六角の樫《かし》の棒のように厚かった。よく見ると、柄《つか》の後《うしろ》に細い棒が二本並んで差さっていた。結果は鞘を重ねて離れないために銀の鉢巻をしたと同じであった。主人は
「土産《みやげ》にこんなものを持って来ました。蒙古刀《もうことう》だそうです」と云いながら、すぐ抜いて見せた。後《うしろ》に差してあった象牙《ぞうげ》のような棒も二本抜いて見せた。
「こりゃ箸《はし》ですよ。蒙古人は始終《しじゅう》これを腰へぶら下げていて、いざ御馳走《ごちそう》という段になると、この刀を抜いて肉を切って、そうしてこの箸で傍《そば》から食うんだそうです」
主人はことさらに刀と箸を両手に持って、切ったり食ったりする真似をして見せた。宗助はひたすらにその精巧な作りを眺《なが》めた。
「まだ蒙古人の天幕《テント》に使うフェルトも貰いましたが、まあ昔の毛氈《もうせん》と変ったところもありませんね」
主人は蒙古人の上手に馬を扱う事や、蒙古犬の瘠《や》せて細長くて、西洋のグレー・ハウンドに似ている事や、彼らが支那人のためにだんだん押し狭《せば》められて行く事や、――すべて近頃あっちから帰ったという弟に聞いたままを宗助に話した。宗助はまた自分のいまだかつて耳にした事のない話だけに、一々少なからぬ興味を有《も》ってそれを聞いて行った。そのうちに、元来この弟は蒙古で何をしているのだろうという好奇心が出た。そこでちょっと主人
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