に尋ねて見ると、主人は、
「冒険者《アドヴェンチュアラー》」と再び先刻《さっき》の言葉を力強く繰り返した。「何をしているか分らない。私には、牧畜をやっています。しかも成功していますと云うんですがね、いっこう当《あて》にはなりません。今までもよく法螺《ほら》を吹いて私を欺《だま》したもんです。それに今度東京へ出て来た用事と云うのがよっぽど妙です。何とか云う蒙古王のために、金を二万円ばかり借りたい。もし借してやらないと自分の信用に関わるって奔走しているんですからね。そのとっぱじめに捕まったのは私だが、いくら蒙古王だって、いくら広い土地を抵当にするったって、蒙古と東京じゃ催促さえできやしませんもの。で、私が断ると、蔭《かげ》へ廻って妻《さい》に、兄さんはあれだから大きな仕事ができっこないって、威張っているんです。しようがない」
 主人はここで少し笑ったが、妙に緊張した宗助の顔を見て、
「どうです一遍逢って御覧になっちゃ、わざわざ毛皮の着いただぶだぶしたものなんか着て、ちょっと面白いですよ。何なら御紹介しましょう。ちょうど明後日《あさって》の晩呼んで飯を食わせる事になっているから。――なに引っ掛っちゃいけませんがね。黙って向《むこう》に喋舌《しゃべ》らして、聞いている分には、少しも危険はありません。ただ面白いだけです」としきりに勧《すす》め出した。宗助は多少心を動かした。
「おいでになるのは御令弟だけですか」
「いやほかに一人|弟《おとと》の友達で向《むこう》からいっしょに来たものが、来るはずになっています。安井とか云って私はまだ逢った事もない男ですが、弟がしきりに私に紹介したがるから、実はそれで二人を呼ぶ事にしたんです」
 宗助はその夜|蒼《あお》い顔をして坂井の門を出た。

        十七

 宗助《そうすけ》と御米《およね》の一生を暗く彩《いろ》どった関係は、二人の影を薄くして、幽霊《ゆうれい》のような思をどこかに抱《いだ》かしめた。彼らは自己の心のある部分に、人に見えない結核性の恐ろしいものが潜《ひそ》んでいるのを、仄《ほの》かに自覚しながら、わざと知らぬ顔に互と向き合って年を過した。
 当初彼らの頭脳に痛く応《こた》えたのは、彼らの過《あやまち》が安井の前途に及ぼした影響であった。二人の頭の中で沸《わ》き返った凄《すご》い泡《あわ》のようなものがようやく静まった時、二人は安井もまた半途で学校を退《しりぞ》いたという消息を耳にした。彼らは固《もと》より安井の前途を傷《きずつ》けた原因をなしたに違なかった。次に安井が郷里に帰ったという噂《うわさ》を聞いた。次に病気に罹《かか》って家に寝ているという報知《しらせ》を得た。二人はそれを聞くたびに重い胸を痛めた。最後に安井が満洲に行ったと云う音信《たより》が来た。宗助は腹の中で、病気はもう癒《なお》ったのだろうかと思った。または満洲行の方が嘘《うそ》ではなかろうかと考えた。安井は身体《からだ》から云っても、性質から云っても、満洲や台湾に向く男ではなかったからである。宗助はできるだけ手を回して、事の真疑を探った。そうして、或る関係から、安井がたしかに奉天にいる事を確め得た。同時に彼の健康で、活溌《かっぱつ》で、多忙である事も確め得た。その時夫婦は顔を見合せて、ほっという息を吐《つ》いた。
「まあよかろう」と宗助が云った。
「病気よりはね」と御米が云った。
 二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。考え出す事さえもあえてしなかった。彼らは安井を半途で退学させ、郷里へ帰らせ、病気に罹らせ、もしくは満洲へ駆《か》りやった罪に対して、いかに悔恨の苦しみを重ねても、どうする事もできない地位に立っていたからである。
「御米、御前信仰の心が起った事があるかい」と或時宗助が御米に聞いた。御米は、ただ、
「あるわ」と答えただけで、すぐ「あなたは」と聞き返した。
 宗助は薄笑いをしたぎり、何とも答えなかった。その代り推《お》して、御米の信仰について、詳しい質問も掛けなかった。御米には、それが仕合《しあわ》せかも知れなかった。彼女はその方面に、これというほど判然《はっきり》した凝《こ》り整った何物も有《も》っていなかったからである。二人はとかくして会堂の腰掛《ベンチ》にも倚《よ》らず、寺院の門も潜《くぐ》らずに過ぎた。そうしてただ自然の恵から来る月日《つきひ》と云う緩和剤《かんわざい》の力だけで、ようやく落ちついた。時々遠くから不意に現れる訴《うったえ》も、苦しみとか恐れとかいう残酷の名を付けるには、あまり微《かす》かに、あまり薄く、あまりに肉体と慾得を離れ過ぎるようになった。必竟《ひっきょう》ずるに、彼らの信仰は、神を得なかったため、仏《ほとけ》に逢わなかったため、互を目標《めじるし》として働
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