なりはしなかったろうかと考えた。
そこへ下女が三尺の狭い入口を開けて這入《はい》って来たが、改ためて宗助に鄭重《ていちょう》な御辞儀をした上、木皿のような菓子皿のようなものを、一つ前に置いた。それから同じ物をもう一つ主人の前に置いて、一口もものを云わずに退《さ》がった。木皿の上には護謨毬《ゴムまり》ほどな大きな田舎饅頭《いなかまんじゅう》が一つ載《の》せてあった。それに普通の倍以上もあろうと思われる楊枝《ようじ》が添えてあった。
「どうです暖《あった》かい内に」と主人が云ったので、宗助は始めてこの饅頭の蒸《む》して間もない新らしさに気がついた。珍らしそうに黄色い皮を眺《なが》めた。
「いやできたてじゃありません」と主人がまた云った。「実は昨夜《さくや》ある所へ行って、冗談《じょうだん》半分に賞《ほ》めたら、御土産《おみやげ》に持っていらっしゃいと云うから貰って来たんです。その時は全く暖《あっ》たかだったんですがね。これは今上げようと思って蒸《む》し返さしたのです」
主人は箸《はし》とも楊枝《ようじ》とも片のつかないもので、無雑作《むぞうさ》に饅頭を割って、むしゃむしゃ食い始めた。宗助も顰《ひん》に傚《なら》った。
その間に主人は昨夕《ゆうべ》行った料理屋で逢ったとか云って妙な芸者の話をした。この芸者はポッケット論語が好きで、汽車へ乗ったり遊びに行ったりするときは、いつでもそれを懐《ふところ》にして出るそうであった。
「それでね孔子の門人のうちで、子路《しろ》が一番|好《すき》だって云うんですがね。そのいわれを聞くと、子路と云う男は、一つ何か教《おす》わって、それをまだ行わないうちに、また新らしい事を聞くと苦にするほど正直だからだって云うんです。実のところ私《わたし》も子路はあまりよく知らないから困ったが、何しろ一人好い人ができて、それと夫婦にならない前に、また新らしく好い人ができると苦になるようなものじゃないかって、聞いて見たんです……」
主人はこんな事をはなはだ気楽そうに述べ立てた。その話の様子からして考えると、彼はのべつにこういう場所に出入《しつにゅう》して、その刺戟《しげき》にはとうに麻痺《まひ》しながら、因習の結果、依然として月に何度となく同じ事を繰り返しているらしかった。よく聞き糺《ただ》して見ると、しかく平気な男も、時々は歓楽の飽満《ほうまん》に疲労して、書斎のなかで精神を休める必要が起るのだそうであった。
宗助はそういう方面にまるで経験のない男ではなかったので、強《し》いて興味を装《よそお》う必要もなく、ただ尋常な挨拶《あいさつ》をするところが、かえって主人の気に入るらしかった。彼は平凡な宗助の言葉のなかから、一種異彩のある過去を覗《のぞ》くような素振《そぶり》を見せた。しかしそちらへは宗助が進みたがらない痕迹《こんせき》が少しでも出ると、すぐ話を転じた。それは政略よりもむしろ礼譲からであった。したがって宗助には毫《ごう》も不愉快を与えなかった。
そのうち小六の噂《うわさ》が出た。主人はこの青年について、肉身の兄が見逃すような新らしい観察を、二三|有《も》っていた。宗助は主人の評語を、当ると当らないとに論なく、面白く聞いた。そのなかに、彼は年に合わしては複雑な実用に適しない頭を有っていながら、年よりも若い単純な性情を平気で露《あら》わす子供じゃないかという質問があった。宗助はすぐそれを首肯《うけが》った。しかし学校教育だけで社会教育のないものは、いくら年を取ってもその傾《かたむき》があるだろうと答えた。
「さよう、それと反対で、社会教育だけあって学校教育のないものは、随分複雑な性情を発揮する代りに、頭はいつまでも小供ですからね。かえって始末が悪いかも知れない」
主人はここでちょっと笑ったが、やがて、
「どうです、私《わたし》の所へ書生に寄こしちゃ、少しは社会教育になるかも知れない」と云った。主人の書生は彼の犬が病気で病院へ這入《はい》る一カ月前とかに、徴兵検査に合格して入営したぎり今では一人もいないのだそうであった。
宗助は小六の所置をつける好機会が、求めざるに先だって、春と共に自《おのず》から回《めぐ》って来たのを喜こんだ。同時に、今まで世間に向って、積極的に好意と親切を要求する勇気を有《も》たなかった彼は、突然この主人の申《もう》し出《いで》に逢って少しまごつくくらい驚ろいた。けれどもできるならなりたけ早く弟を坂井に預けて置いて、この変動から出る自分の余裕《よゆう》に、幾分か安之助の補助を足して、そうして本人の希望通り、高等の教育を受けさしてやろうという分別をした。そこで打ち明けた話を腹蔵なく主人にすると、主人はなるほどなるほどと聞いているだけであったが、しまいに雑作《ぞうさ》なく、
「そいつ
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