あった。小六は真面目《まじめ》な顔をして、これが袖萩《そではぎ》だそうですと云って、それを兄夫婦の前に置いた。なぜ袖萩だか夫婦には分らなかった。小六には無論分らなかったのを、坂井の奥さんが叮嚀《ていねい》に説明してくれたそうであるが、それでも腑《ふ》に落ちなかったので、主人がわざわざ半切《はんきれ》に洒落《しゃれ》と本文《ほんもん》を並べて書いて、帰ったらこれを兄さんと姉さんに御見せなさいと云って渡したとかいう話であった。小六は袂を探ってその書付を取り出して見せた。それに「此《この》垣《かき》一重《ひとえ》が黒鉄《くろがね》の」と認《したた》めた後に括弧《かっこ》をして、(此《この》餓鬼《がき》額《ひたえ》が黒欠《くろがけ》の)とつけ加えてあったので、宗助と御米はまた春らしい笑を洩《も》らした。
「随分念の入った趣向《しゅこう》だね。いったい誰の考《かんがえ》だい」と兄が聞いた。
「誰ですかな」と小六はやっぱりつまらなそうな顔をして、人形をそこへ放り出したまま、自分の室《へや》に帰った。
 それから二三日して、たしか七日《なぬか》の夕方に、また例の坂井の下女が来て、もし御閑《おひま》ならどうぞ御話にと、叮嚀《ていねい》に主人の命を伝えた。宗助と御米は洋灯《ランプ》を点《つ》けてちょうど晩食《ばんめし》を始めたところであった。宗助はその時茶碗を持ちながら、
「春もようやく一段落が着いた」と語っていた。そこへ清が坂井からの口上を取り次いだので、御米は夫の顔を見て微笑した。宗助は茶碗を置いて、
「まだ何か催おしがあるのかい」と少し迷惑そうな眉《まゆ》をした。坂井の下女に聞いて見ると、別に来客もなければ、何の支度もないという事であった。その上細君は子供を連れて親類へ呼ばれて行って留守だという話までした。
「それじゃ行こう」と云って宗助は出掛けた。宗助は一般の社交を嫌《きら》っていた。やむを得なければ会合の席などへ顔を出す男でなかった。個人としての朋友《ともだち》も多くは求めなかった。訪問はする暇を有《も》たなかった。ただ坂井だけは取除《とりのけ》であった。折々は用もないのにこっちからわざわざ出掛けて行って、時を潰《つぶ》して来る事さえあった。その癖坂井は世の中でもっとも社交的の人であった。この社交的な坂井と、孤独な宗助が二人寄って話ができるのは、御米にさえ妙に見える現象であった。坂井は、
「あっちへ行きましょう」と云って、茶の間を通り越して、廊下伝いに小さな書斎へ入った。そこには棕梠《しゅろ》の筆で書いたような、大きな硬《こわ》い字が五字ばかり床の間にかかっていた。棚《たな》の上に見事な白い牡丹《ぼたん》が活《い》けてあった。そのほか机でも蒲団《ふとん》でもことごとく綺麗《きれい》であった。坂井は始め暗い入口に立って、
「さあどうぞ」と云いながら、どこかぴちりと捩《ひね》って、電気灯を点《つ》けた。それから、
「ちょっと待ちたまえ」と云って、燐寸《マッチ》で瓦斯煖炉《ガスだんろ》を焚《た》いた。瓦斯煖炉は室《へや》に比例したごく小さいものであった。坂井はしかる後蒲団を薦《すす》めた。
「これが僕の洞窟《どうくつ》で、面倒になるとここへ避難するんです」
 宗助も厚い綿《わた》の上で、一種の静かさを感じた。瓦斯の燃える音が微《かす》かにしてしだいに背中からほかほか煖まって来た。
「ここにいると、もうどことも交渉はない。全く気楽です。悠《ゆっ》くりしていらっしゃい。実際正月と云うものは予想外に煩瑣《うるさ》いものですね。私も昨日《きのう》まででほとんどへとへとに降参させられました。新年が停滞《もたれ》ているのは実に苦しいですよ。それで今日の午《ひる》から、とうとう塵世《じんせい》を遠ざけて、病気になってぐっと寝込んじまいました。今しがた眼を覚《さ》まして、湯に入って、それから飯を食って、煙草《たばこ》を呑《の》んで、気がついて見ると、家内が子供を連れて親類へ行って留守なんでしょう。なるほど静かなはずだと思いましてね。すると今度は急に退屈になったのです。人間も随分わがままなものですよ。しかしいくら退屈だって、この上おめでたいものを、見たり聞いたりしちゃ骨が折れますし、また御正月らしいものを呑んだり食ったりするのも恐れますから、それで、御正月らしくない、と云うと失礼だが、まあ世の中とあまり縁のないあなた、と云ってもまだ失敬かも知れないが、つまり一口に云うと、超然派《ちょうぜんは》の一人《いちにん》と話しがして見たくなったんで、それでわざわざ使を上げたような訳なんです」と坂井は例の調子で、ことごとくすらすらしたものであった。宗助はこの楽天家の前では、よく自分の過去を忘れる事があった。そうして時によると、自分がもし順当に発展して来たら、こんな人物に
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