い襟首がよく見えた。
「どうも込んで込んで、洗う事も桶《おけ》を取る事もできないくらいなの」と始めて緩《ゆっ》くり息を吐《つ》いた。
清の帰ったのは十一時過であった。これも綺麗《きれい》な頭を障子から出して、ただ今、どうも遅くなりましたと挨拶《あいさつ》をしたついでに、あれから二人とか三人とか待ち合したと云う話をした。
ただ小六だけは容易に帰らなかった。十二時を打ったとき、宗助はもう寝ようと云い出した。御米は今日に限って、先へ寝るのも変なものだと思って、できるだけ話を繋《つな》いでいた。小六は幸《さいわい》にして間もなく帰った。日本橋から銀座へ出てそれから、水天宮の方へ廻ったところが、電車が込んで何台も待ち合わしたために遅くなったという言訳をした。
白牡丹《はくぼたん》へ這入《はい》って、景物の金時計でも取ろうと思ったが、何も買うものがなかったので、仕方なしに鈴の着いた御手玉《おてだま》を一箱買って、そうして幾百となく器械で吹き上げられる風船を一つ攫《つか》んだら、金時計は当らないで、こんなものがあたったと云って、袂《たもと》から倶楽部《くらぶ》洗粉《あらいこ》を一袋出した。それを御米の前に置いて、
「姉さんに上げましょう」と云った。それから鈴を着けた、梅の花の形に縫った御手玉を宗助の前に置いて、
「坂井の御嬢さんにでも御上げなさい」と云った。
事に乏しい一小家族の大晦日《おおみそか》は、それで終りを告げた。
十六
正月は二日目の雪を率《ひきい》て注連飾《しめかざり》の都を白くした。降りやんだ屋根の色がもとに復《かえ》る前、夫婦は亜鉛張《トタンばり》の庇《ひさし》を滑《すべ》り落ちる雪の音に幾遍か驚ろかされた。夜半《よなか》にはどさと云う響がことにはなはだしかった。小路《こうじ》の泥濘《ぬかるみ》は雨上りと違って一日《いちんち》や二日《ふつか》では容易に乾かなかった。外から靴を汚《よご》して帰って来る宗助《そうすけ》が、御米《およね》の顔を見るたびに、
「こりゃいけない」と云いながら玄関へ上った。その様子があたかも御米を路を悪くした責任者と見傚《みな》している風に受取られるので、御米はしまいに、
「どうも済みません。本当に御気の毒さま」と云って笑い出した。宗助は別に返すべき冗談《じょうだん》も有《も》たなかった。
「御米ここから出かけるには、どこへ行くにも足駄《あしだ》を穿《は》かなくっちゃならないように見えるだろう。ところが下町へ出ると大違だ。どの通もどの通もからからで、かえって埃《ほこり》が立つくらいだから、足駄なんぞ穿《は》いちゃきまりが悪くって歩けやしない。つまりこう云う所に住んでいる我々は一世紀がた後《おく》れる事になるんだね」
こんな事を口にする宗助は、別に不足らしい顔もしていなかった。御米も夫の鼻の穴を潜《くぐ》る煙草《たばこ》の煙《けむ》を眺めるくらいな気で、それを聞いていた。
「坂井さんへ行って、そう云っていらっしゃいな」と軽い返事をした。
「そうして屋賃でも負けて貰う事にしよう」と答えたまま、宗助はついに坂井へは行かなかった。
その坂井には元日の朝早く名刺を投げ込んだだけで、わざと主人の顔を見ずに門を出たが、義理のある所を一日のうちにほぼ片づけて夕方帰って見ると、留守の間に坂井がちゃんと来ていたので恐縮した。二日は雪が降っただけで何事もなく過ぎた。三日目の日暮《ひくれ》に下女が使に来て、御閑《おひま》ならば、旦那様と奥さまと、それから若旦那様に是非今晩御遊びにいらっしゃるようにと云って帰った。
「何をするんだろう」と宗助は疑ぐった。
「きっと歌加留多《うたがるた》でしょう。小供が多いから」と御米が云った。「あなた行っていらっしゃい」
「せっかくだから御前行くが好い。おれは歌留多は久しく取らないから駄目だ」
「私も久しく取らないから駄目ですわ」
二人は容易に行こうとはしなかった。しまいに、では若旦那がみんなを代表して行くが宜《よ》かろうという事になった。
「若旦那行って来い」と宗助が小六《ころく》に云った。小六は苦笑《にがわら》いして立った。夫婦は若旦那と云う名を小六に冠《かむ》らせる事を大変な滑稽《こっけい》のように感じた。若旦那と呼ばれて、苦笑いする小六の顔を見ると、等しく声を出して笑い出した。小六は春らしい空気の中《うち》から出た。そうして一町ほどの寒さを横切って、また春らしい電灯の下《もと》に坐った。
その晩小六は大晦日《おおみそか》に買った梅の花の御手玉《おてだま》を袂《たもと》に入れて、これは兄から差上げますとわざわざ断って、坂井の御嬢さんに贈物にした。その代り帰りには、福引に当った小さな裸人形を同じ袂へ入れて来た。その人形の額が少し欠けて、そこだけ墨で塗って
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