。三返に一返ぐらい、顔を見せないで、始ての時のように、ひっそり隣りの室《へや》に忍んでいる事もあった。宗助は別にそれを気にも留めなかった。それにもかかわらず、二人はようやく接近した。幾何《いくばく》ならずして冗談《じょうだん》を云うほどの親《したし》みができた。
 そのうちまた秋が来た。去年と同じ事情の下《もと》に、京都の秋を繰り返す興味に乏しかった宗助は、安井と御米に誘われて茸狩《たけがり》に行った時、朗らかな空気のうちにまた新らしい香《におい》を見出した。紅葉《もみじ》も三人で観た。嵯峨《さが》から山を抜けて高雄《たかお》へ歩く途中で、御米は着物の裾《すそ》を捲《ま》くって、長襦袢《ながじゅばん》だけを足袋《たび》の上まで牽《ひ》いて、細い傘《かさ》を杖《つえ》にした。山の上から一町も下に見える流れに日が射して、水の底が明らかに遠くから透《す》かされた時、御米は
「京都は好い所ね」と云って二人を顧《かえり》みた。それをいっしょに眺めた宗助にも、京都は全く好い所のように思われた。
 こう揃《そろ》って外へ出た事も珍らしくはなかった。家《うち》の中で顔を合わせる事はなおしばしばあった。或時宗助が例のごとく安井を尋ねたら、安井は留守で、御米ばかり淋《さみ》しい秋の中に取り残されたように一人|坐《すわ》っていた。宗助は淋《さむ》しいでしょうと云って、つい座敷に上り込んで、一つ火鉢《ひばち》の両側に手を翳《かざ》しながら、思ったより長話をして帰った。或時宗助がぽかんとして、下宿の机に倚《よ》りかかったまま、珍らしく時間の使い方に困っていると、ふと御米がやって来た。そこまで買物に出たから、ついでに寄ったんだとか云って、宗助の薦《すす》める通り、茶を飲んだり菓子を食べたり、緩《ゆっ》くり寛《くつ》ろいだ話をして帰った。
 こんな事が重なって行くうちに、木《こ》の葉《は》がいつの間《ま》にか落ちてしまった。そうして高い山の頂《いただき》が、ある朝真白に見えた。吹《ふ》き曝《さら》しの河原《かわら》が白くなって、橋を渡る人の影が細く動いた。その年の京都の冬は、音を立てずに肌を透《とお》す陰忍《いんにん》な質《たち》のものであった。安井はこの悪性の寒気《かんき》にあてられて、苛《ひど》いインフルエンザに罹《かか》った。熱が普通の風邪《かぜ》よりもよほど高かったので、始は御米も驚ろいたが、それは一時《いちじ》の事で、すぐ退《ひ》いたには退いたから、これでもう全快と思うと、いつまで立っても判然《はっきり》しなかった。安井は黐《もち》のような熱に絡《から》みつかれて、毎日その差し引きに苦しんだ。
 医者は少し呼吸器を冒《おか》されているようだからと云って、切に転地を勧めた。安井は心ならず押入の中の柳行李《やなぎごうり》に麻縄《あさなわ》を掛けた。御米は手提鞄《てさげかばん》に錠《じょう》をおろした。宗助は二人を七条まで見送って、汽車が出るまで室《へや》の中へ這入《はい》って、わざと陽気な話をした。プラットフォームへ下りた時、窓の内から、
「遊びに来たまえ」と安井が云った。
「どうぞ是非」と御米が言った。
 汽車は血色の好い宗助の前をそろそろ過ぎて、たちまち神戸の方に向って煙を吐《は》いた。
 病人は転地先で年を越した。絵端書《えはがき》は着いた日から毎日のように寄こした。それにいつでも遊びに来いと繰り返して書いてない事はなかった。御米の文字も一二行ずつは必ず交《まじ》っていた。宗助は安井と御米から届いた絵端書を別にして机の上に重ねて置いた。外から帰るとそれが直《すぐ》眼に着いた。時々はそれを一枚ずつ順に読み直したり、見直したりした。しまいにもうすっかり癒《なお》ったから帰る。しかしせっかくここまで来ながら、ここで君の顔を見ないのは遺憾《いかん》だから、この手紙が着きしだい、ちょっとでいいから来いという端書が来た。無事と退屈を忌《い》む宗助を動かすには、この十数言《じゅうすうげん》で充分であった。宗助は汽車を利用してその夜のうちに安井の宿に着いた。
 明るい灯火《ともしび》の下に三人が待設けた顔を合わした時、宗助は何よりもまず病人の色沢《いろつや》の回復して来た事に気がついた。立つ前よりもかえって好いくらいに見えた。安井自身もそんな心持がすると云って、わざわざ襯衣《シャツ》の袖《そで》を捲《まく》り上げて、青筋の入った腕を独《ひとり》で撫《な》でていた。御米も嬉《うれ》しそうに眼を輝かした。宗助にはその活溌《かっぱつ》な目遣《めづかい》がことに珍らしく受取れた。今まで宗助の心に映じた御米は、色と音の撩乱《りょうらん》する裏《なか》に立ってさえ、極《きわ》めて落ちついていた。そうしてその落ちつきの大部分はやたらに動かさない眼の働らきから来たとしか思われ
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