御米の口調《くちょう》のどこにも、国訛《くになまり》らしい音《おん》の交《まじ》っていない事に気がついた。
「今まで御国の方に」と聞いたら、御米が返事をする前に安井が、
「いや横浜に長く」と答えた。
その日は二人して町へ買物に出ようと云うので、御米は不断着《ふだんぎ》を脱ぎ更えて、暑いところをわざわざ新らしい白足袋《しろたび》まで穿《は》いたものと知れた。宗助はせっかくの出がけを喰い留めて、邪魔でもしたように気の毒な思をした。
「なに宅《うち》を持ち立てだものだから、毎日毎日|要《い》るものを新らしく発見するんで、一週に一二返は是非都まで買い出しに行かなければならない」と云いながら安井は笑った。
「途《みち》までいっしょに出掛けよう」と宗助はすぐ立ち上がった。ついでに家《うち》の様子を見てくれと安井の云うに任せた。宗助は次の間にある亜鉛《トタン》の落しのついた四角な火鉢《ひばち》や、黄な安っぽい色をした真鍮《しんちゅう》の薬鑵《やかん》や、古びた流しの傍《そば》に置かれた新らし過ぎる手桶《ておけ》を眺めて、門《かど》へ出た。安井は門口《かどぐち》へ錠《じょう》をおろして、鍵《かぎ》を裏の家《うち》へ預けるとか云って、走《か》けて行った。宗助と御米は待っている間、二言、三言、尋常な口を利《き》いた。
宗助はこの三四分間に取り換わした互の言葉を、いまだに覚えていた。それはただの男がただの女に対して人間たる親《したし》みを表わすために、やりとりする簡略な言葉に過ぎなかった。形容すれば水のように浅く淡いものであった。彼は今日《こんにち》まで路傍道上において、何かの折に触れて、知らない人を相手に、これほどの挨拶《あいさつ》をどのくらい繰り返して来たか分らなかった。
宗助は極《きわ》めて短かいその時の談話を、一々思い浮べるたびに、その一々が、ほとんど無着色と云っていいほどに、平淡であった事を認めた。そうして、かく透明な声が、二人の未来を、どうしてああ真赤《まっか》に、塗りつけたかを不思議に思った。今では赤い色が日を経《へ》て昔の鮮《あざや》かさを失っていた。互を焚《や》き焦《こ》がした※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》は、自然と変色して黒くなっていた。二人の生活はかようにして暗い中に沈んでいた。宗助は過去を振り向いて、事の成行《なりゆき》を逆に眺め返しては、この淡泊《たんぱく》な挨拶《あいさつ》が、いかに自分らの歴史を濃く彩《いろど》ったかを、胸の中であくまで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。
宗助は二人で門の前に佇《たたず》んでいる時、彼らの影が折れ曲って、半分ばかり土塀《どべい》に映ったのを記憶していた。御米の影が蝙蝠傘《こうもりがさ》で遮《さえ》ぎられて、頭の代りに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶していた。少し傾むきかけた初秋《はつあき》の日が、じりじり二人を照り付けたのを記憶していた。御米は傘を差したまま、それほど涼しくもない柳の下に寄った。宗助は白い筋を縁《ふち》に取った紫《むらさき》の傘の色と、まだ褪《さ》め切らない柳の葉の色を、一歩|遠退《とおの》いて眺め合わした事を記憶していた。
今考えるとすべてが明らかであった。したがって何らの奇もなかった。二人は土塀の影から再び現われた安井を待ち合わして、町の方へ歩いた。歩く時、男同志は肩を並べた。御米は草履《ぞうり》を引いて後《あと》に落ちた。話も多くは男だけで受持った。それも長くはなかった。途中まで来て宗助は一人分れて、自分の家《うち》へ帰ったからである。
けれども彼の頭にはその日の印象が長く残っていた。家へ帰って、湯に入って、灯火《ともしび》の前に坐った後《のち》にも、折々色の着いた平たい画《え》として、安井と御米の姿が眼先にちらついた。それのみか床《とこ》に入《い》ってからは、妹《いもと》だと云って紹介された御米が、果して本当の妹であろうかと考え始めた。安井に問いつめない限り、この疑《うたがい》の解決は容易でなかったけれども、臆断《おくだん》はすぐついた。宗助はこの臆断を許すべき余地が、安井と御米の間に充分存在し得るだろうぐらいに考えて、寝ながらおかしく思った。しかもその臆断に、腹の中で※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》する事の馬鹿馬鹿しいのに気がついて、消し忘れた洋灯《ランプ》をようやくふっと吹き消した。
こう云う記憶の、しだいに沈んで痕迹《あとかた》もなくなるまで、御互の顔を見ずに過すほど、宗助と安井とは疎遠ではなかった。二人は毎日学校で出合うばかりでなく、依然として夏休み前の通り往来を続けていた。けれども宗助が行くたびに、御米は必ず挨拶《あいさつ》に出るとは限らなかった
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