なかった。
次の日三人は表へ出て遠く濃い色を流す海を眺めた。松の幹から脂《やに》の出る空気を吸った。冬の日は短い空を赤裸々に横切っておとなしく西へ落ちた。落ちる時、低い雲を黄に赤に竈《かまど》の火の色に染めて行った。風は夜に入っても起らなかった。ただ時々松を鳴らして過ぎた。暖かい好い日が宗助の泊っている三日の間続いた。
宗助はもっと遊んで行きたいと云った。御米はもっと遊んで行きましょうと云った。安井は宗助が遊びに来たから好い天気になったんだろうと云った。三人はまた行李《こうり》と鞄《かばん》を携《たずさ》えて京都へ帰った。冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。山の上を明らかにした斑《まだら》な雪がしだいに落ちて、後から青い色が一度に芽を吹いた。
宗助は当時を憶《おも》い出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭を擡《もた》げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易《か》える頃に終った。すべてが生死《しょうし》の戦《たたかい》であった。青竹を炙《あぶ》って油を絞《しぼ》るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分達を認めた。けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。
世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負《しょわ》した。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然《ぼうぜん》として、彼らの頭が確《たしか》であるかを疑った。彼らは彼らの眼に、不徳義な男女《なんにょ》として恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。そこに言訳らしい言訳が何にもなかった。だからそこに云うに忍びない苦痛があった。彼らは残酷な運命が気紛《きまぐれ》に罪もない二人の不意を打って、面白半分|穽《おとしあな》の中に突き落したのを無念に思った。
曝露《ばくろ》の日がまともに彼らの眉間《みけん》を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣《けいれん》の苦痛を乗り切っていた。彼らは蒼白《あおしろ》い額を素直に前に出して、そこに※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》に似た烙印《やきいん》を受けた。そうして無形の鎖で繋《つな》がれたまま、手を携《たずさ》えてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を見出した。彼らは親を棄《す》てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれらから棄てられた。学校からは無論棄てられた。ただ表向だけはこちらから退学した事になって、形式の上に人間らしい迹《あと》を留《とど》めた。
これが宗助と御米の過去であった。
十五
この過去を負わされた二人は、広島へ行っても苦しんだ。福岡へ行っても苦しんだ。東京へ出て来ても、依然として重い荷に抑《おさ》えつけられていた。佐伯《さえき》の家とは親しい関係が結べなくなった。叔父は死んだ。叔母と安之助《やすのすけ》はまだ生きているが、生きている間に打ち解けた交際《つきあい》はできないほど、もう冷淡の日を重ねてしまった。今年はまだ歳暮にも行かなかった。向《むこう》からも来なかった。家《いえ》に引取った小六《ころく》さえ腹の底では兄に敬意を払っていなかった。二人が東京へ出たてには、単純な小供の頭から、正直に御米《およね》を悪《にく》んでいた。御米にも宗助《そうすけ》にもそれがよく分っていた。夫婦は日の前に笑み、月の前に考えて、静かな年を送り迎えた。今年ももう尽きる間際《まぎわ》まで来た。
通町《とおりちょう》では暮の内から門並揃《かどなみそろい》の注連飾《しめかざり》をした。往来の左右に何十本となく並んだ、軒より高い笹《ささ》が、ことごとく寒い風に吹かれて、さらさらと鳴った。宗助も二尺余りの細い松を買って、門の柱に釘付《くぎづけ》にした。それから大きな赤い橙《だいだい》を御供《おそなえ》の上に載《の》せて、床の間に据《す》えた。床にはいかがわしい墨画《すみえ》の梅が、蛤《はまぐり》の格好《かっこう》をした月を吐《は》いてかかっていた。宗助にはこの変な軸の前に、橙と御供を置く意味が解らなかった。
「いったいこりゃ、どう云う了見《りょうけん》だね」と自分で飾りつけた物を眺《なが》めながら、御米に聞いた。御米にも毎年こうする意味はとんと解らなかった。
「知らないわ。ただそうしておけばいいのよ」と云って台所へ去った。宗助は、
「こうしておいて、つまり食うためか」と首を傾けて御供の位置を直した。
伸餅《のしもち》は夜業《よなべ》に俎《まないた》を茶の間まで持ち出して、みん
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