知をしよう、そうしてなるべくならいっしょの汽車で京都へ下《くだ》ろう、もし時間が許すなら、興津《おきつ》あたりで泊って、清見寺《せいけんじ》や三保《みほ》の松原や、久能山《くのうざん》でも見ながら緩《ゆっ》くり遊んで行こうと云った。宗助は大いによかろうと答えて、腹のなかではすでに安井の端書《はがき》を手にする時の心持さえ予想した。
 宗助が東京へ帰ったときは、父は固《もと》よりまだ丈夫であった。小六《ころく》は子供であった。彼は一年ぶりに殷《さか》んな都の炎熱と煤煙《ばいえん》を呼吸するのをかえって嬉《うれ》しく感じた。燬《や》くような日の下に、渦《うず》を捲《ま》いて狂い出しそうな瓦《かわら》の色が、幾里となく続く景色《けしき》を、高い所から眺めて、これでこそ東京だと思う事さえあった。今の宗助なら目を眩《まわ》しかねない事々物々が、ことごとく壮快の二字を彼の額に焼き付けべく、その時は反射して来たのである。
 彼の未来は封じられた蕾《つぼみ》のように、開かない先は他《ひと》に知れないばかりでなく、自分にも確《しか》とは分らなかった。宗助はただ洋々の二字が彼の前途に棚引《たなび》いている気がしただけであった。彼はこの暑い休暇中にも卒業後の自分に対する謀《はかりごと》を忽《ゆる》がせにはしなかった。彼は大学を出てから、官途につこうか、または実業に従おうか、それすら、まだ判然《はっきり》と心にきめていなかったにかかわらず、どちらの方面でも構わず、今のうちから、進めるだけ進んでおく方が利益だと心づいた。彼は直接父の紹介を得た。父を通して間接にその知人の紹介を得た。そうして自分の将来を影響し得るような人を物色して、二三の訪問を試みた。彼らのあるものは、避暑という名義の下《もと》に、すでに東京を離れていた。あるものは不在であった。またあるものは多忙のため時を期して、勤務先で会おうと云った。宗助は日のまだ高くならない七時頃に、昇降器《エレヴェーター》で煉瓦造《れんがづくり》の三階へ案内されて、そこの応接間に、もう七八人も自分と同じように、同じ人を待っている光景を見て驚ろいた事もあった。彼はこうして新らしい所へ行って、新らしい物に接するのが、用向の成否に関わらず、今まで眼に付かずに過ぎた活《い》きた世界の断片を頭へ詰め込むような気がして何となく愉快であった。
 父の云いつけで、毎年の通り虫干の手伝をさせられるのも、こんな時には、かえって興味の多い仕事の一部分に数えられた。彼は冷たい風の吹き通す土蔵の戸前《とまえ》の湿《しめ》っぽい石の上に腰を掛けて、古くから家にあった江戸名所図会《えどめいしょずえ》と、江戸砂子《えどすなご》という本を物珍しそうに眺めた。畳まで熱くなった座敷の真中へ胡坐《あぐら》を掻《か》いて、下女の買って来た樟脳《しょうのう》を、小さな紙片《かみぎれ》に取り分けては、医者でくれる散薬のような形に畳んだ。宗助は小供の時から、この樟脳の高い香《かおり》と、汗の出る土用と、炮烙灸《ほうろくぎゅう》と、蒼空《あおぞら》を緩《ゆる》く舞う鳶《とび》とを連想していた。
 とかくするうちに節《せつ》は立秋に入った。二百十日の前には、風が吹いて、雨が降った。空には薄墨《うすずみ》の煮染《にじ》んだような雲がしきりに動いた。寒暖計が二三日下がり切りに下がった。宗助はまた行李《こうり》を麻縄で絡《から》げて、京都へ向う支度をしなければならなくなった。
 彼はこの間にも安井と約束のある事は忘れなかった。家《うち》へ帰った当座は、まだ二カ月も先の事だからと緩くり構えていたが、だんだん時日が逼《せま》るに従って、安井の消息が気になってきた。安井はその後一枚の端書《はがき》さえ寄こさなかったのである。宗助は安井の郷里の福井へ向けて手紙を出して見た。けれども返事はついに来なかった。宗助は横浜の方へ問い合わせて見ようと思ったが、つい番地も町名も聞いて置かなかったので、どうする事もできなかった。
 立つ前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助の請求通り、普通の旅費以外に、途中で二三日滞在した上、京都へ着いてからの当分の小遣《こづかい》を渡して、
「なるたけ節倹《せっけん》しなくちゃいけない」と諭《さと》した。
 宗助はそれを、普通の子が普通の親の訓戒を聞く時のごとくに聞いた。父はまた、
「来年また帰って来るまでは会わないから、随分気をつけて」と云った。その帰って来る時節には、宗助はもう帰れなくなっていたのである。そうして帰って来た時は、父の亡骸《なきがら》がもう冷たくなっていたのである。宗助は今に至るまでその時の父の面影《おもかげ》を思い浮べてはすまないような気がした。
 いよいよ立つと云う間際《まぎわ》に、宗助は安井から一通の封書を受取った。開いて見ると、約束通り
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