いっしょに帰るつもりでいたが、少し事情があって先へ立たなければならない事になったからと云う断《ことわり》を述べた末に、いずれ京都で緩《ゆっ》くり会おうと書いてあった。宗助はそれを洋服の内懐《うちぶところ》に押し込んで汽車に乗った。約束の興津《おきつ》へ来たとき彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一筋町を清見寺《せいけんじ》の方へ歩いた。夏もすでに過ぎた九月の初なので、おおかたの避暑客は早く引き上げた後だから、宿屋は比較的閑静であった。宗助は海の見える一室の中に腹這《はらばい》になって、安井へ送る絵端書《えはがき》へ二三行の文句を書いた。そのなかに、君が来ないから僕一人でここへ来たという言葉を入れた。
 翌日も約束通り一人で三保《みほ》と竜華寺《りゅうげじ》を見物して、京都へ行ってから安井に話す材料をできるだけ拵《こしら》えた。しかし天気のせいか、当《あて》にした連《つれ》のないためか、海を見ても、山へ登っても、それほど面白くなかった。宿にじっとしているのは、なお退屈であった。宗助は匆々《そうそう》にまた宿の浴衣《ゆかた》を脱《ぬ》ぎ棄《す》てて、絞《しぼ》りの三尺と共に欄干《らんかん》に掛けて、興津を去った。
 京都へ着いた一日目は、夜汽車の疲れやら、荷物の整理やらで、往来の日影を知らずに暮らした。二日目になってようやく学校へ出て見ると、教師はまだ出揃《でそろ》っていなかった。学生も平日《いつも》よりは数が不足であった。不審な事には、自分より三四《さんよ》っ日《か》前に帰っているべきはずの安井の顔さえどこにも見えなかった。宗助はそれが気にかかるので、帰りにわざわざ安井の下宿へ回って見た。安井のいる所は樹と水の多い加茂《かも》の社《やしろ》の傍であった。彼は夏休み前から、少し閑静な町外れへ移って勉強するつもりだとか云って、わざわざこの不便な村同様な田舎《いなか》へ引込んだのである。彼の見つけ出した家からが寂《さび》た土塀《どべい》を二方に回《めぐ》らして、すでに古風に片づいていた。宗助は安井から、そこの主人はもと加茂神社の神官の一人であったと云う話を聞いた。非常に能弁な京都言葉を操《あやつ》る四十ばかりの細君がいて、安井の世話をしていた。
「世話って、ただ不味《まず》い菜《さい》を拵《こし》らえて、三度ずつ室《へや》へ運んでくれるだけだよ」と安井は移り立てからこの細君の悪口を利《き》いていた。宗助は安井をここに二三度訪ねた縁故で、彼のいわゆる不味い菜を拵らえる主《ぬし》を知っていた。細君の方でも宗助の顔を覚えていた。細君は宗助を見るや否や、例の柔かい舌で慇懃《いんぎん》な挨拶《あいさつ》を述べた後、こっちから聞こうと思って来た安井の消息を、かえって向うから尋ねた。細君の云うところによると、彼は郷里へ帰ってから当日に至るまで、一片の音信さえ下宿へは出さなかったのである。宗助は案外な思で自分の下宿へ帰って来た。
 それから一週間ほどは、学校へ出るたんびに、今日は安井の顔が見えるか、明日《あす》は安井の声がするかと、毎日|漠然《ばくぜん》とした予期を抱《いだ》いては教室の戸を開けた。そうして毎日また漠然とした不足を感じては帰って来た。もっとも最後の三四日における宗助は早く安井に会いたいと思うよりも、少し事情があるから、失敬して先へ立つとわざわざ通知しながら、いつまで待っても影も見せない彼の安否を、関係者としてむしろ気にかけていたのである。彼は学友の誰彼に万遍《まんべん》なく安井の動静を聞いて見た。しかし誰も知るものはなかった。ただ一人が、昨夕《ゆうべ》四条の人込の中で、安井によく似た浴衣《ゆかた》がけの男を見たと答えた事があった。しかし宗助にはそれが安井だろうとは信じられなかった。ところがその話を聞いた翌日、すなわち宗助が京都へ着いてから約一週間の後、話の通りの服装《なり》をした安井が、突然宗助の所へ尋ねて来た。
 宗助は着流しのまま麦藁帽《むぎわらぼう》を手に持った友達の姿を久し振に眺めた時、夏休み前の彼の顔の上に、新らしい何物かがさらに付け加えられたような気がした。安井は黒い髪に油を塗って、目立つほど奇麗《きれい》に頭を分けていた。そうして今床屋へ行って来たところだと言訳らしい事を云った。
 その晩彼は宗助と一時間余りも雑談に耽《ふけ》った。彼の重々しい口の利き方、自分を憚《はば》かって、思い切れないような話の調子、「しかるに」と云う口癖、すべて平生の彼と異なる点はなかった。ただ彼はなぜ宗助より先へ横浜を立ったかを語らなかった。また途中どこで暇取《ひまど》ったため、宗助より後《おく》れて京都へ着いたかを判然《はっきり》告げなかった。しかし彼は三四日前ようやく京都へ着いた事だけを明かにした。そうして、夏休み前にいた下宿へはまだ
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