》が丈夫だから結構だ」とよくどこかに故障の起る安井が羨《うらや》ましがった。この安井というのは国は越前《えちぜん》だが、長く横浜にいたので、言葉や様子は毫《ごう》も東京ものと異なる点がなかった。着物道楽で、髪の毛を長くして真中から分ける癖があった。高等学校は違っていたけれども、講義のときよく隣合せに並んで、時々聞き損《そく》なった所などを後から質問するので、口を利《き》き出したのが元になって、つい懇意になった。それが学年の始《はじま》りだったので、京都へ来て日のまだ浅い宗助にはだいぶんの便宜《べんぎ》であった。彼は安井の案内で新らしい土地の印象を酒のごとく吸い込んだ。二人は毎晩のように三条とか四条とかいう賑《にぎ》やかな町を歩いた。時によると京極《きょうごく》も通り抜けた。橋の真中に立って鴨川《かもがわ》の水を眺めた。東山《ひがしやま》の上に出る静かな月を見た。そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。町や人に厭《あ》きたときは、土曜と日曜を利用して遠い郊外に出た。宗助は至る所の大竹藪《おおたけやぶ》に緑の籠《こも》る深い姿を喜んだ。松の幹の染めたように赤いのが、日を照り返して幾本となく並ぶ風情《ふぜい》を楽しんだ。ある時は大悲閣《だいひかく》へ登って、即非《そくひ》の額の下に仰向《あおむ》きながら、谷底の流を下《くだ》る櫓《ろ》の音を聞いた。その音が雁《かり》の鳴声によく似ているのを二人とも面白がった。ある時は、平八茶屋《へいはちぢゃや》まで出掛けて行って、そこに一日寝ていた。そうして不味《まず》い河魚の串《くし》に刺したのを、かみさんに焼かして酒を呑《の》んだ。そのかみさんは、手拭《てぬぐい》を被《かぶ》って、紺《こん》の立付《たっつけ》みたようなものを穿《は》いていた。
 宗助はこんな新らしい刺戟《しげき》の下《もと》に、しばらくは慾求の満足を得た。けれどもひととおり古い都の臭《におい》を嗅《か》いで歩くうちに、すべてがやがて、平板に見えだして来た。その時彼は美くしい山の色と清い水の色が、最初ほど鮮明な影を自分の頭に宿さないのを物足らず思い始めた。彼は暖かな若い血を抱《いだ》いて、その熱《ほて》りを冷《さま》す深い緑に逢えなくなった。そうかといって、この情熱を焚《や》き尽すほどの烈《はげ》しい活動には無論出会わなかった。彼の血は高い脈を打って、いたずらにむず痒《がゆ》く彼の身体の中を流れた。彼は腕組をして、坐《い》ながら四方の山を眺めた。そうして、
「もうこんな古臭い所には厭きた」と云った。
 安井は笑いながら、比較のため、自分の知っている或友達の故郷の物語をして宗助に聞かした。それは浄瑠璃《じょうるり》の間《あい》の土山《つちやま》雨が降るとある有名な宿《しゅく》の事であった。朝起きてから夜寝るまで、眼に入るものは山よりほかにない所で、まるで擂鉢《すりばち》の底に住んでいると同じ有様だと告げた上、安井はその友達の小さい時分の経験として、五月雨《さみだれ》の降りつづく折などは、小供心に、今にも自分の住んでいる宿《しゅく》が、四方の山から流れて来る雨の中に浸《つ》かってしまいそうで、心配でならなかったと云う話をした。宗助はそんな擂鉢の底で一生を過す人の運命ほど情ないものはあるまいと考えた。
「そう云う所に、人間がよく生きていられるな」と不思議そうな顔をして安井に云った。安井も笑っていた。そうして土山《つちやま》から出た人物の中《うち》では、千両函《せんりょうばこ》を摩《す》り替《か》えて磔《はりつけ》になったのが一番大きいのだと云う一口話をやはり友達から聞いた通り繰り返した。狭い京都に飽きた宗助は、単調な生活を破る色彩として、そう云う出来事も百年に一度ぐらいは必要だろうとまで思った。
 その時分の宗助の眼は、常に新らしい世界にばかり注《そそ》がれていた。だから自然がひととおり四季の色を見せてしまったあとでは、再び去年の記憶を呼び戻すために、花や紅葉《もみじ》を迎える必要がなくなった。強く烈《はげ》しい命に生きたと云う証券を飽《あ》くまで握りたかった彼には、活《い》きた現在と、これから生れようとする未来が、当面の問題であったけれども、消えかかる過去は、夢同様に価《あたい》の乏しい幻影に過ぎなかった。彼は多くの剥《は》げかかった社《やしろ》と、寂果《さびは》てた寺を見尽して、色の褪《さ》めた歴史の上に、黒い頭を振り向ける勇気を失いかけた。寝耄《ねぼ》けた昔に※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊《ていかい》するほど、彼の気分は枯れていなかったのである。
 学年の終りに宗助と安井とは再会を約して手を分った。安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、もしその時には手紙を出して通
前へ 次へ
全83ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング