生活の内容には、刺戟《しげき》に乏しい或物が潜んでいるような鈍《にぶ》い訴《うったえ》があった。それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日を倦《う》まず渡って来たのは、彼らが始から一般の社会に興味を失っていたためではなかった。社会の方で彼らを二人ぎりに切りつめて、その二人に冷かな背《そびら》を向けた結果にほかならなかった。外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月《さいげつ》を挙《あ》げて、互の胸を掘り出した。彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互から云えば、道義上切り離す事のできない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合ってでき上っていた。彼らは大きな水盤の表に滴《した》たった二点の油のようなものであった。水を弾《はじ》いて二つがいっしょに集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事ができなくなったと評する方が適当であった。
彼らはこの抱合《ほうごう》の中《うち》に、尋常の夫婦に見出しがたい親和と飽満《ほうまん》と、それに伴なう倦怠《けんたい》とを兼ね具えていた。そうしてその倦怠の慵《ものう》い気分に支配されながら、自己を幸福と評価する事だけは忘れなかった。倦怠は彼らの意識に眠のような幕を掛けて、二人の愛をうっとり霞《かす》ます事はあった。けれども簓《ささら》で神経を洗われる不安はけっして起し得なかった。要するに彼らは世間に疎《うと》いだけそれだけ仲の好い夫婦であったのである。
彼らは人並以上に睦《むつ》ましい月日を渝《かわ》らずに今日《きょう》から明日《あす》へと繋《つな》いで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分達の睦まじがる心を、自分で確《しか》と認める事があった。その場合には必ず今まで睦まじく過ごした長の歳月《としつき》を溯《さか》のぼって、自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった。彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐《ふくしゅう》の下《もと》に戦《おのの》きながら跪《ひざま》ずいた。同時にこの復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁《いちべん》の香《こう》を焚《た》く事を忘れなかった。彼らは鞭《むちう》たれつつ死に赴くものであった。ただその鞭の先に、すべてを癒《い》やす甘い蜜の着いている事を覚《さと》ったのである。
宗助は相当に資産のある東京ものの子弟として、彼らに共通な派出《はで》な嗜好《しこう》を、学生時代には遠慮なく充《み》たした男である。彼はその時|服装《なり》にも、動作にも、思想にも、ことごとく当世らしい才人の面影《おもかげ》を漲《みなぎ》らして、昂《たか》い首を世間に擡《もた》げつつ、行こうと思う辺《あた》りを濶歩《かっぽ》した。彼の襟《えり》の白かったごとく、彼の洋袴《ズボン》の裾《すそ》が奇麗《きれい》に折り返されていたごとく、その下から見える彼の靴足袋《くつたび》が模様入のカシミヤであったごとく、彼の頭は華奢《きゃしゃ》な世間向きであった。
彼は生れつき理解の好い男であった。したがって大した勉強をする気にはなれなかった。学問は社会へ出るための方便と心得ていたから、社会を一歩|退《しり》ぞかなくっては達する事のできない、学者という地位には、余り多くの興味を有《も》っていなかった。彼はただ教場へ出て、普通の学生のする通り、多くのノートブックを黒くした。けれども宅《うち》へ帰って来て、それを読み直したり、手を入れたりした事は滅多《めった》になかった。休んで抜けた所さえ大抵はそのままにして放って置いた。彼は下宿の机の上に、このノートブックを奇麗に積み上げて、いつ見ても整然と秩序のついた書斎を空《から》にしては、外を出歩るいた。友達は多く彼の寛濶《かんかつ》を羨《うらや》んだ。宗助も得意であった。彼の未来は虹《にじ》のように美くしく彼の眸《ひとみ》を照らした。
その頃の宗助は今と違って多くの友達を持っていた。実を云うと、軽快な彼の眼に映ずるすべての人は、ほとんど誰彼の区別なく友達であった。彼は敵という言葉の意味を正当に解し得ない楽天家として、若い世をのびのびと渡った。
「なに不景気な顔さえしなければ、どこへ行ったって驩迎《かんげい》されるもんだよ」と学友の安井によく話した事があった。実際彼の顔は、他《ひと》を不愉快にするほど深刻な表情を示し得た試《ためし》がなかった。
「君は身体《からだ
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