っか》りして、ついには取り放しの夜具の下へ潜《もぐ》り込んで、人の世を遠ざけるように、眼を堅く閉《つぶ》ってしまう事もあった。
そのうち定期の三週間も過ぎて、御米の身体は自《おのず》からすっきりなった。御米は奇麗《きれい》に床を払って、新らしい気のする眉《まゆ》を再び鏡に照らした。それは更衣《ころもがえ》の時節であった。御米も久しぶりに綿の入《い》った重いものを脱《ぬ》ぎ棄《す》てて、肌に垢《あか》の触れない軽い気持を爽《さわ》やかに感じた。春と夏の境をぱっと飾る陽気な日本の風物は、淋《さむ》しい御米の頭にも幾分かの反響を与えた。けれども、それはただ沈んだものを掻《か》き立てて、賑《にぎ》やかな光りのうちに浮かしたまでであった。御米の暗い過去の中にその時一種の好奇心が萌《きざ》したのである。
天気の勝《すぐ》れて美くしいある日の午前、御米はいつもの通り宗助を送り出してから直《じき》に、表へ出た。もう女は日傘《ひがさ》を差して外を行くべき時節であった。急いで日向《ひなた》を歩くと額の辺《あたり》が少し汗ばんだ。御米は歩き歩き、着物を着換える時、箪笥を開けたら、思わず一番目の抽出の底にしまってあった、新らしい位牌に手が触れた事を思いつづけて、とうとうある易者《えきしゃ》の門を潜《くぐ》った。
彼女は多数の文明人に共通な迷信を子供の時から持っていた。けれども平生はその迷信がまた多数の文明人と同じように、遊戯的に外に現われるだけで済んでいた。それが実生活の厳かな部分を冒《おか》すようになったのは、全く珍らしいと云わなければならなかった。御米はその時|真面目《まじめ》な態度と真面目な心を有《も》って、易者の前に坐って、自分が将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確めた。易者は大道に店を出して、往来の人の身の上を一二銭で占《うら》なう人と、少しも違った様子もなく、算木《さんぎ》をいろいろに並べて見たり、筮竹《ぜいちく》を揉《も》んだり数えたりした後で、仔細《しさい》らしく腮《あご》の下の髯《ひげ》を握って何か考えたが、終りに御米の顔をつくづく眺《なが》めた末、
「あなたには子供はできません」と落ちつき払って宣告した。御米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中で噛《か》んだり砕《くだ》いたりした。それから顔を上げて、
「なぜでしょう」と聞き返した。その時御米は易者が返事をする前に、また考えるだろうと思った。ところが彼はまともに御米の眼の間を見詰めたまま、すぐ
「あなたは人に対してすまない事をした覚《おぼえ》がある。その罪が祟《たた》っているから、子供はけっして育たない」と云い切った。御米はこの一言《いちげん》に心臓を射抜かれる思があった。くしゃりと首を折ったなり家《うち》へ帰って、その夜は夫の顔さえろくろく見上げなかった。
御米の宗助に打ち明けないで、今まで過したというのは、この易者の判断であった。宗助は床の間に乗せた細い洋灯《ランプ》の灯《ひ》が、夜の中に沈んで行きそうな静かな晩に、始めて御米の口からその話を聞いたとき、さすがに好い気味はしなかった。
「神経の起った時、わざわざそんな馬鹿な所へ出かけるからさ。銭《ぜに》を出して下らない事を云われてつまらないじゃないか。その後もその占《うらない》の宅《うち》へ行くのかい」
「恐ろしいから、もうけっして行かないわ」
「行かないがいい。馬鹿気ている」
宗助はわざと鷹揚《おうよう》な答をしてまた寝てしまった。
十四
宗助《そうすけ》と御米《およね》とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日《こんにち》まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味《きまず》く暮した事はなかった。言逆《いさかい》に顔を赤らめ合った試《ためし》はなおなかった。二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であった。彼らは山の中にいる心を抱《いだ》いて、都会に住んでいた。
自然の勢《いきおい》として、彼らの生活は単調に流れない訳に行かなかった。彼らは複雑な社会の煩《わずらい》を避け得たと共に、その社会の活動から出るさまざまの経験に直接触れる機会を、自分と塞《ふさ》いでしまって、都会に住みながら、都会に住む文明人の特権を棄《す》てたような結果に到着した。彼らも自分達の日常に変化のない事は折々自覚した。御互が御互に飽《あ》きるの、物足りなくなるのという心は微塵《みじん》も起らなかったけれども、御互の頭に受け入れる
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