った。けれどもなかば以上は御米の落度《おちど》に違なかった。臍帯纏絡の変状は、御米が井戸端で滑って痛く尻餅《しりもち》を搗《つ》いた五カ月前すでに自《みずか》ら醸《かも》したものと知れた。御米は産後の蓐中《じょくちゅう》にその始末を聞いて、ただ軽く首肯《うなず》いたぎり何にも云わなかった。そうして、疲労に少し落ち込んだ眼を霑《うる》ませて、長い睫毛《まつげ》をしきりに動かした。宗助は慰さめながら、手帛《ハンケチ》で頬に流れる涙を拭《ふ》いてやった。
 これが子供に関する夫婦の過去であった。この苦《にが》い経験を甞《な》めた彼らは、それ以後幼児について余り多くを語るを好まなかった。けれども二人の生活の裏側は、この記憶のために淋《さむ》しく染めつけられて、容易に剥《は》げそうには見えなかった。時としては、彼我《ひが》の笑声を通してさえ、御互の胸に、この裏側が薄暗く映る事もあった。こういう訳だから、過去の歴史を今夫に向って新たに繰り返そうとは、御米も思い寄らなかったのである。宗助も今更妻からそれを聞かせられる必要は少しも認めていなかったのである。
 御米の夫に打ち明けると云ったのは、固より二人の共有していた事実についてではなかった。彼女は三度目の胎児を失った時、夫からその折の模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。自分が手を下《くだ》した覚がないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇《くらやみ》と明海《あかるみ》の途中に待ち受けて、これを絞殺《こうさつ》したと同じ事であったからである。こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人と己《おのれ》を見傚《みな》さない訳に行かなかった。そうして思わざる徳義上の苛責《かしゃく》を人知れず受けた。しかもその苛責を分って、共に苦しんでくれるものは世界中に一人もなかった。御米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。
 彼女はその時普通の産婦のように、三週間を床の中で暮らした。それは身体《からだ》から云うと極《きわ》めて安静の三週間に違なかった。同時に心から云うと、恐るべき忍耐の三週間であった。宗助は亡児のために、小さい柩《ひつぎ》を拵《こし》らえて、人の眼に立たない葬儀を営なんだ。しかる後、また死んだもののために小さな位牌《いはい》を作った。位牌には黒い漆《うるし》で戒名《かいみょう》が書いてあった。位牌の主《ぬし》は戒名を持っていた。けれども俗名《ぞくみょう》は両親《ふたおや》といえども知らなかった。宗助は最初それを茶の間の箪笥《たんす》の上へ載《の》せて、役所から帰ると絶えず線香を焚《た》いた。その香《におい》が六畳に寝ている御米の鼻に時々|通《かよ》った。彼女の官能は当時それほどに鋭どくなっていたのである。しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌《いはい》を箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》の底へしまってしまった。そこには福岡で亡くなった小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿で包《くる》んで丁寧《ていねい》に入れてあった。東京の家を畳むとき宗助は先祖の位牌を一つ残らず携《たずさ》えて、諸所を漂泊《ひょうはく》するの煩《わずら》わしさに堪《た》えなかったので、新らしい父の分だけを鞄《かばん》の中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。
 御米は宗助のするすべてを寝ながら見たり聞いたりしていた。そうして布団《ふとん》の上に仰向《あおむけ》になったまま、この二つの小《ち》さい位牌を、眼に見えない因果《いんが》の糸を長く引いて互に結びつけた。それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、始めから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命の厳《おごそ》かな支配を認めて、その厳かな支配の下《もと》に立つ、幾月日《いくつきひ》の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、時ならぬ呪詛《のろい》の声を耳の傍《はた》に聞いた。彼女が三週間の安静を、蒲団《ふとん》の上に貪《むさ》ぼらなければならないように、生理的に強《し》いられている間、彼女の鼓膜はこの呪詛の声でほとんど絶えず鳴っていた。三週間の安臥は、御米に取って実に比類のない忍耐の三週間であった。
 御米はこの苦しい半月余りを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。しまいには我慢して横になっているのが、いかにも苛《つら》かったので、看護婦の帰った明《あく》る日に、こっそり起きてぶらぶらして見たが、それでも心に逼《せま》る不安は、容易に紛《まぎ》らせなかった。退儀《たいぎ》な身体《からだ》を無理に動かす割に、頭の中は少しも動いてくれないので、また落胆《が
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