わ》では、室内に煖炉《だんろ》を据えつける設備をするだけでも容易ではなかった。夫婦はわが時間と算段の許す限りを尽して、専念に赤児の命を護《まも》った。けれどもすべては徒労に帰した。一週間の後、二人の血を分けた情《なさけ》の塊《かたまり》はついに冷たくなった。御米は幼児の亡骸《なきがら》を抱《だ》いて、
「どうしましょう」と啜《すす》り泣いた。宗助は再度の打撃を男らしく受けた。冷たい肉が灰になって、その灰がまた黒い土に和《か》するまで、一口も愚痴《ぐち》らしい言葉は出さなかった。そのうちいつとなく、二人の間に挟《はさ》まっていた影のようなものが、しだいに遠退《とおの》いて、ほどなく消えてしまった。
 すると三度目の記憶が来た。宗助が東京に移って始ての年に、御米はまた懐妊したのである。出京の当座は、だいぶん身体《からだ》が衰ろえていたので、御米はもちろん、宗助もひどくそこを気遣《きづか》ったが、今度こそはという腹は両方にあったので、張のある月を無事にだんだんと重ねて行った。ところがちょうど五月目《いつつきめ》になって、御米はまた意外の失敗《しくじり》をやった。その頃はまだ水道も引いてなかったから、朝晩下女が井戸端へ出て水を汲んだり、洗濯をしなければならなかった。御米はある日裏にいる下女に云いつける用ができたので、井戸流《いどながし》の傍《そば》に置いた盥《たらい》の傍まで行って話をしたついでに、流《ながし》を向《むこう》へ渡ろうとして、青い苔《こけ》の生えている濡《ぬ》れた板の上へ尻持《しりもち》を突いた。御米はまたやり損《そく》なったとは思ったが、自分の粗忽《そこつ》を面目ながって、宗助にはわざと何事も語らずにその場を通した。けれどもこの震動が、いつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分の身体《からだ》にも少しの異状を引き起さなかった事がたしかに分った時、御米はようやく安心して、過去の失《しつ》を改めて宗助の前に告げた。宗助は固《もと》より妻を咎《とが》める意もなかった。ただ、
「よく気をつけないと危ないよ」と穏やかに注意を加えて過ぎた。
 とかくするうちに月が満ちた。いよいよ生れるという間際《まぎわ》まで日が詰ったとき、宗助は役所へ出ながらも、御米の事がしきりに気にかかった。帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちになどと案じ続けては、自分の家の格子《こうし》の前に立った。そうして半ば予期している赤児の泣声が聞えないと、かえって何かの変でも起ったらしく感じて、急いで宅《うち》へ飛び込んで、自分と自分の粗忽を恥ずる事があった。
 幸《さいわい》に御米の産気《さんけ》づいたのは、宗助の外に用のない夜中だったので、傍にいて世話のできると云う点から見ればはなはだ都合が好かった。産婆も緩《ゆっ》くり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なく取り揃《そろ》えてあった。産も案外軽かった。けれども肝心《かんじん》の小児《こども》は、ただ子宮を逃《のが》れて広い所へ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。産婆は細い硝子《ガラス》の管のようなものを取って、小《ち》さい口の内《なか》へ強い呼息《いき》をしきりに吹き込んだが、効目《ききめ》はまるでなかった。生れたものは肉だけであった。夫婦はこの肉に刻みつけられた、眼と鼻と口とを髣髴《ほうふつ》した。しかしその咽喉《のど》から出る声はついに聞く事ができなかった。
 産婆は出産のあったつい一週間前に来て、丁寧《ていねい》に胎児の心臓まで聴診して、至極《しごく》御健全だと保証して行ったのである。よし産婆の云う事に間違があって、腹の児《こ》の発育が今までのうちにどこかで止っていたにしたところで、それが直《すぐ》取り出されない以上、母体は今日《こんにち》まで平気に持ち応《こた》える訳がなかった。そこをだんだん調べて見て、宗助は自分がいまだかつて聞いた事のない事実を発見した時に、思わず恐れ驚ろいた。胎児は出る間際まで健康であったのである。けれども臍帯纏絡《さいたいてんらく》と云って、俗に云う胞《えな》を頸《くび》へ捲《ま》きつけていた。こう云う異常の場合には、固《もと》より産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のある婆さんなら、取り上げる時に、旨《うま》く頸に掛かった胞を外《はず》して引き出すはずであった。宗助の頼んだ産婆もかなり年を取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。しかし胎児の頸を絡《から》んでいた臍帯は、時たまあるごとく一重《ひとえ》ではなかった。二重《ふたえ》に細い咽喉《のど》を巻いている胞を、あの細い所を通す時に外し損《そく》なったので、小児《こども》はぐっと気管を絞《し》められて窒息してしまったのである。
 罪は産婆にもあ
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