ひ》くために口にした、故意の観察でないのだから、こう改たまって聞き糺《ただ》されると、困るよりほかはなかった。
「何も宅《うち》の事を云ったのじゃないよ」
この返事を受けた御米は、しばらく黙っていた。やがて、
「でも宅の事を始終淋しい淋しいと思っていらっしゃるから、必竟《つまり》あんな事をおっしゃるんでしょう」と前とほぼ似たような問を繰り返した。宗助は固《もと》よりそうだと答えなければならない或物を頭の中に有《も》っていた。けれども御米を憚《はばか》って、それほど明白地《あからさま》な自白をあえてし得なかった。この病気上りの細君の心を休めるためには、かえってそれを冗談《じょうだん》にして笑ってしまう方が善《よ》かろうと考えたので、
「淋しいと云えば、そりゃ淋しくないでもないがね」と調子を易《か》えてなるべく陽気に出たが、そこで詰まったぎり、新らしい文句も、面白い言葉も容易に思いつけなかった。やむを得ず、
「まあいいや。心配するな」と云った。御米はまた何とも答えなかった。宗助は話題を変えようと思って、
「昨夕《ゆうべ》も火事があったね」と世間話をし出した。すると御米は急に、
「私は実にあなたに御気の毒で」と切なそうに言訳を半分して、またそれなり黙ってしまった。洋灯《ランプ》はいつものように床の間の上に据《す》えてあった。御米は灯《ひ》に背《そむ》いていたから、宗助には顔の表情が判然《はっきり》分らなかったけれども、その声は多少涙でうるんでいるように思われた。今まで仰向《あおむ》いて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向き直った。そうして薄暗い影になった御米の顔をじっと眺《なが》めた。御米も暗い中からじっと宗助を見ていた。そうして、
「疾《とう》からあなたに打ち明けて謝罪《あや》まろう謝罪まろうと思っていたんですが、つい言い悪《にく》かったもんだから、それなりにしておいたのです」と途切れ途切れに云った。宗助には何の意味かまるで解らなかった。多少はヒステリーのせいかとも思ったが、全然そうとも決しかねて、しばらく茫然《ぼんやり》していた。すると御米が思い詰めた調子で、
「私にはとても子供のできる見込はないのよ」と云い切って泣き出した。
宗助はこの可憐な自白をどう慰さめていいか分別に余って当惑していたうちにも、御米に対してはなはだ気の毒だという思が非常に高まった。
「子供なんざ、無くてもいいじゃないか。上の坂井さんみたようにたくさん生れて御覧、傍《はた》から見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」
「だって一人もできないときまっちまったら、あなただって好《よ》かないでしょう」
「まだできないときまりゃしないじゃないか。これから生れるかも知れないやね」
御米はなおと泣き出した。宗助も途方《とほう》に暮れて、発作の治まるのを穏やかに待っていた。そうして、緩《ゆっ》くり御米の説明を聞いた。
夫婦は和合|同棲《どうせい》という点において、人並以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった。それも始から宿る種がなかったのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落したのだから、さらに不幸の感が深かった。
始めて身重《みおも》になったのは、二人が京都を去って、広島に瘠世帯《やせじょたい》を張っている時であった。懐妊《かいにん》と事がきまったとき、御米はこの新らしい経験に対して、恐ろしい未来と、嬉《うれ》しい未来を一度に夢に見るような心持を抱《いだ》いて日を過ごした。宗助はそれを眼に見えない愛の精に、一種の確証となるべき形を与えた事実と、ひとり解釈して少なからず喜んだ。そうして自分の命を吹き込んだ肉の塊《かたまり》が、目の前に踊る時節を指を折って楽しみに待った。ところが胎児は、夫婦の予期に反して、五カ月まで育って突然|下《お》りてしまった。その時分の夫婦の活計《くらし》は苦しい苛《つら》い月ばかり続いていた。宗助は流産した御米の蒼《あお》い顔を眺めて、これも必竟《つまり》は世帯の苦労から起るんだと判じた。そうして愛情の結果が、貧のために打ち崩《くず》されて、永く手の裡《うち》に捕える事のできなくなったのを残念がった。御米はひたすら泣いた。
福岡へ移ってから間もなく、御米はまた酸《す》いものを嗜《たし》む人となった。一度流産すると癖になると聞いたので、御米は万《よろず》に注意して、つつましやかに振舞っていた。そのせいか経過は至極《しごく》順当に行ったが、どうした訳か、これという原因もないのに、月足らずで生れてしまった。産婆は首を傾けて、一度医者に見せるように勧めた。医者に診《み》て貰うと、発育が充分でないから、室内の温度を一定の高さにして、昼夜とも変らないくらい、人工的に暖めなければいけないと云った。宗助の手際《てぎ
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