た暮に、夏の絽を買う人を見て余裕《よゆう》のあるものはまた格別だと感じた。すると、主人が宗助に向って、
「どうですあなたも、ついでに何か一つ。奥さんの不断着でも」と勧めた。細君もこう云う機会に買って置くと、幾割か値安に買える便宜《べんぎ》を説いた。そうして、
「なに、御払《おはらい》はいつでもいいんです」と受合ってくれた。宗助はとうとう御米のために銘仙《めいせん》を一反買う事にした。主人はそれをさんざん値切って三円に負けさした。
織屋は負けた後《あと》でまた、
「全く値じゃねえね。泣きたくなるね」と云ったので、大勢がまた一度に笑った。
織屋はどこへ行ってもこういう鄙《ひな》びた言葉を使って通しているらしかった。毎日|馴染《なじ》みの家をぐるぐる回《まわ》って歩いているうちには、背中の荷がだんだん軽《かろ》くなって、しまいに紺《こん》の風呂敷《ふろしき》と真田紐《さなだひも》だけが残る。その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新らしい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと云った。そうして養蚕《ようさん》の忙《せわ》しい四月の末か五月の初までに、それを悉皆《すっかり》金に換えて、また富士の北影の焼石ばかりころがっている小村へ帰って行くのだそうである。
「宅《うち》へ来出してから、もう四五年になりますが、いつ見ても同じ事で、少しも変らないんですよ」と細君が注意した。
「実際珍らしい男です」と主人も評語を添えた。三日も外へ出ないと、町幅がいつの間にか取り広げられていたり、一日新聞を読まないと、電車の開通を知らずに過したりする今の世に、年に二度も東京へ出ながら、こう山男の特色をどこまでも維持して行くのは、実際珍らしいに違なかった。宗助はつくづくこの織屋の容貌《ようぼう》やら態度やら服装やら言葉使やらを観察して、一種気の毒な思をなした。
彼は坂井を辞して、家《うち》へ帰る途中にも、折々インヴァネスの羽根の下に抱えて来た銘仙の包《つつみ》を持ち易《か》えながら、それを三円という安い価《ね》で売った男の、粗末な布子《ぬのこ》の縞《しま》と、赤くてばさばさした髪の毛と、その油気《あぶらけ》のない硬《こわ》い髪の毛が、どういう訳か、頭の真中で立派に左右に分けられている様を、絶えず眼の前に浮べた。
宅では御米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、圧《おし》の代りに坐蒲団《ざぶとん》の下へ入れて、自分でその上へ坐っているところであった。
「あなた今夜敷いて寝て下さい」と云って、御米は宗助を顧《かえり》みた。夫から、坂井へ来ていた甲斐《かい》の男の話を聞いた時は、御米もさすがに大きな声を出して笑った。そうして宗助の持って帰った銘仙《めいせん》の縞柄《しまがら》と地合《じあい》を飽《あ》かず眺《なが》めては、安い安いと云った。銘仙は全く品《しな》の良《い》いものであった。
「どうして、そう安く売って割に合うんでしょう」としまいに聞き出した。
「なに中へ立つ呉服屋が儲《もう》け過ぎてるのさ」と宗助はその道に明るいような事を、この一反の銘仙から推断して答えた。
夫婦の話はそれから、坂井の生活に余裕のある事と、その余裕のために、横町の道具屋などに意外な儲《もう》け方《かた》をされる代りに、時とするとこう云う織屋などから、差し向き不用のものを廉価《れんか》に買っておく便宜《べんぎ》を有している事などに移って、しまいにその家庭のいかにも陽気で、賑《にぎ》やかな模様に落ちて行った。宗助はその時突然語調を更《か》えて、
「なに金があるばかりじゃない。一つは子供が多いからさ。子供さえあれば、大抵貧乏な家《うち》でも陽気になるものだ」と御米を覚《さと》した。
その云い方が、自分達の淋《さみ》しい生涯《しょうがい》を、多少|自《みずか》ら窘《たしな》めるような苦《にが》い調子を、御米の耳に伝えたので、御米は覚えず膝《ひざ》の上の反物から手を放して夫の顔を見た。宗助は坂井から取って来た品が、御米の嗜好《しこう》に合ったので、久しぶりに細君を喜ばせてやった自覚があるばかりだったから、別段そこには気がつかなかった。御米もちょっと宗助の顔を見たなりその時は何にも云わなかった。けれども夜《よ》に入《い》って寝る時間が来るまで御米はそれをわざと延ばしておいたのである。
二人はいつもの通り十時過床に入ったが、夫の眼がまだ覚《さ》めている頃を見計らって、御米は宗助の方を向いて話しかけた。
「あなた先刻《さっき》小供がないと淋《さむ》しくっていけないとおっしゃってね」
宗助はこれに類似の事を普般的に云った覚《おぼえ》はたしかにあった。けれどもそれは強《あな》がちに、自分達の身の上について、特に御米の注意を惹《
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