たときは、それでも清々《せいせい》した心持であった。御米の勧め通り髪を刈った方が、結局《つまり》気を新たにする効果があったのを、冷たい空気の中で、宗助は自覚した。
 水道税の事でちょっと聞き合せる必要が生じたので、宗助は帰り路に坂井へ寄った。下女が出て来て、こちらへと云うから、いつもの座敷へ案内するかと思うと、そこを通り越して、茶の間へ導びいていった。すると茶の間の襖《ふすま》が二尺ばかり開《あ》いていて、中から三四人の笑い声が聞えた。坂井の家庭は相変らず陽気であった。
 主人は光沢《つや》の好い長火鉢《ながひばち》の向側に坐っていた。細君は火鉢を離れて、少し縁側《えんがわ》の障子《しょうじ》の方へ寄って、やはりこちらを向いていた。主人の後《うしろ》に細長い黒い枠《わく》に嵌《は》めた柱時計がかかっていた。時計の右が壁で、左が袋戸棚《ふくろとだな》になっていた。その張交《はりまぜ》に石摺《いしずり》だの、俳画だの、扇の骨を抜いたものなどが見えた。
 主人と細君のほかに、筒袖《つつそで》の揃《そろ》いの模様の被布《ひふ》を着た女の子が二人肩を擦《す》りつけ合って坐っていた。片方は十二三で、片方は十《とお》ぐらいに見えた。大きな眼を揃えて、襖《ふすま》の陰から入って来た宗助の方を向いたが、二人の眼元にも口元にも、今笑ったばかりの影が、まだゆたかに残っていた。宗助は一応|室《へや》の内を見回して、この親子のほかに、まだ一人妙な男が、一番入口に近い所に畏《かしこ》まっているのを見出した。
 宗助は坐って五分と立たないうちに、先刻《さっき》の笑声は、この変な男と坂井の家族との間に取り換わされた問答から出る事を知った。男は砂埃《すなほこり》でざらつきそうな赤い毛と、日に焼けて生涯《しょうがい》褪《さ》めっこない強い色を有《も》っていた。瀬戸物の釦《ボタン》の着いた白木綿《しろもめん》の襯衣《シャツ》を着て、手織の硬《こわ》い布子《ぬのこ》の襟《えり》から財布の紐《ひも》みたような長い丸打《まるうち》をかけた様子は、滅多《めった》に東京などへ出る機会のない遠い山の国のものとしか受け取れなかった。その上男はこの寒いのに膝小僧《ひざこぞう》を少し出して、紺《こん》の落ちた小倉《こくら》の帯の尻に差した手拭《てぬぐい》を抜いては鼻の下を擦《こす》った。
「これは甲斐《かい》の国から反物《たんもの》を背負《しょ》ってわざわざ東京まで出て来る男なんです」と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、
「どうか旦那、一つ買っておくれ」と挨拶《あいさつ》をした。
 なるほど銘仙《めいせん》だの御召《おめし》だの、白紬《しろつむぎ》だのがそこら一面に取り散らしてあった。宗助はこの男の形装《なり》や言葉遣《ことばづかい》のおかしい割に、立派な品物を背中へ乗せて歩行《ある》くのをむしろ不思議に思った。主人の細君の説明によると、この織屋の住んでいる村は焼石ばかりで、米も粟《あわ》も収《と》れないから、やむを得ず桑《くわ》を植えて蚕《かいこ》を飼うんだそうであるが、よほど貧しい所と見えて、柱時計を持っている家が一軒だけで、高等小学へ通う小供が三人しかないという話であった。
「字の書けるものは、この人ぎりなんだそうですよ」と云って細君は笑った。すると織屋も、
「本当のこんだよ、奥さん。読み書き算筆《さんぴつ》のできるものは、おれよりほかにねえんだからね。全く非道《ひど》い所にゃ違ない」と真面目に細君の云う事を首肯《うけが》った。
 織屋はいろいろの反物を主人や細君の前へ突きつけては、「買っておくれ」という言葉をしきりに繰り返した。そりゃ高いよいくらいくらに御負けなどと云われると、「値じゃねえね」とか、「拝むからそれで買っておくれ」とか、「まあ目方を見ておくれ」とかすべて異様な田舎《いなか》びた答をした。そのたびに皆《みんな》が笑った。主人夫婦はまた閑《ひま》だと見えて、面白半分にいつまでも織屋を相手にした。
「織屋、御前そうして荷を背負《しょ》って、外へ出て、時分どきになったら、やっぱり御膳《ごぜん》を食べるんだろうね」と細君が聞いた。
「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減る事ちゅうたら」
「どんな所で食べるの」
「どんな所で食べるちゅうて、やっぱり茶屋で食うだね」
 主人は笑いながら茶屋とは何だと聞いた。織屋は、飯を食わす所が茶屋だと答えた。それから東京へ出立《でたて》には飯が非常に旨《うま》いので、腹を据《す》えて食い出すと、大抵の宿屋は叶《かな》わない、三度三度食っちゃ気の毒だと云うような事を話して、また皆《みんな》を笑わした。
 織屋はしまいに撚糸《よりいと》の紬《つむぎ》と、白絽《しろろ》を一匹《いっぴき》細君に売りつけた。宗助はこの押しつまっ
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