なって、すぐにでも起したい心持がするので、つい決し兼てぐずぐずしていた。そこへようやく医者が来てくれた。
昨夕の折鞄《おりかばん》をまた丁寧《ていねい》に傍《わき》へ引きつけて、緩《ゆっ》くり巻煙草《まきたばこ》を吹かしながら、宗助の云うことを、はあはあと聞いていたが、どれ拝見致しましょうと御米の方へ向き直った。彼は普通の場合のように病人の脈を取って、長い間自分の時計を見つめていた。それから黒い聴診器を心臓の上に当てた。それを丁寧にあちらこちらと動かした。最後に丸い穴の開《あ》いた反射鏡を出して、宗助に蝋燭《ろうそく》を点《つ》けてくれと云った。宗助は蝋燭を持たないので、清に洋灯《ランプ》を点《つ》けさした。医者は眠っている御米の眼を押し開けて、仔細《しさい》に反射鏡の光を睫《まつげ》の奥に集めた。診察はそれで終った。
「少し薬が利《き》き過ぎましたね」と云って宗助の方へ向き直ったが、宗助の眼の色を見るや否《いな》や、すぐ、
「しかし御心配になる事はありません。こう云う場合に、もし悪い結果が起るとすると、きっと心臓か脳を冒《おか》すものですが、今拝見したところでは双方共異状は認められませんから」と説明してくれた。宗助はそれでようやく安心した。医者はまた自分の用いた眠り薬が比較的新らしいもので、学理上、他の睡眠剤のように有害でない事や、またその効目《ききめ》が患者の体質に因《よ》って、程度に大変な相違のある事などを語って帰った。帰るとき宗助は、
「では寝られるだけ寝かしておいても差支《さしつかえ》ありませんか」と聞いたら、医者は用さえなければ別に起す必要もあるまいと答えた。
医者が帰ったあとで、宗助は急に空腹になった。茶の間へ出ると、先刻《さっき》掛けておいた鉄瓶《てつびん》がちんちん沸《たぎ》っていた。清を呼んで、膳《ぜん》を出せと命ずると、清は困った顔つきをして、まだ何の用意もできていないと答えた。なるほど晩食《ばんめし》には少し間があった。宗助は楽々と火鉢の傍《そば》に胡坐《あぐら》を掻《か》いて、大根の香《こう》の物《もの》を噛《か》みながら湯漬《ゆづけ》を四杯ほどつづけざまに掻《か》き込んだ。それから約三十分ほどしたら御米の眼がひとりでに覚《さ》めた。
十三
新年の頭を拵《こし》らえようという気になって、宗助《そうすけ》は久し振に髪結床《かみゆいどこ》の敷居を跨《また》いだ。暮のせいか客がだいぶ立て込んでいるので、鋏《はさみ》の音が二三カ所で、同時にちょきちょき鳴った。この寒さを無理に乗り越して、一日も早く春に入ろうと焦慮《あせ》るような表通の活動を、宗助は今見て来たばかりなので、その鋏の音が、いかにも忙《せわ》しない響となって彼の鼓膜を打った。
しばらく煖炉《ストーブ》の傍《はた》で煙草《たばこ》を吹かして待っている間に、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動に否応なしに捲《ま》き込まれて、やむを得ず年を越さなければならない人のごとくに感じた。正月を眼の前へ控えた彼は、実際これという新らしい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、何だかざわざわした心持を抱《いだ》いていたのである。
御米《およね》の発作《ほっさ》はようやく落ちついた。今では平日《いつも》のごとく外へ出ても、家《うち》の事がそれほど気にかからないぐらいになった。余所《よそ》に比べると閑静な春の支度も、御米から云えば、年に一度の忙がしさには違なかったので、あるいはいつも通りの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、蘇生《よみがえ》ったようにはっきりした妻《さい》の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩|遠退《とおの》いた時のごとくに、胸を撫《な》でおろした。しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族を捕《とら》えに来るか分らないと云う、ぼんやりした掛念《けねん》が、折々彼の頭のなかに霧《きり》となってかかった。
年の暮に、事を好むとしか思われない世間の人が、故意《わざ》と短い日を前へ押し出したがって齷齪《あくせく》する様子を見ると、宗助はなおの事この茫漠《ぼうばく》たる恐怖の念に襲《おそ》われた。成ろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走《しわす》の中《うち》に一人残っていたい思さえ起った。ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出した時、ふとこの影は本来何者だろうと眺《なが》めた。首から下は真白な布に包まれて、自分の着ている着物の色も縞《しま》も全く見えなかった。その時彼はまた床屋の亭主が飼っている小鳥の籠《かご》が、鏡の奥に映っている事に気がついた。鳥が止《とま》り木《ぎ》の上をちらりちらりと動いた。
頭へ香《におい》のする油を塗られて、景気のいい声を後《うしろ》から掛けられて、表へ出
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