た。色は普通黒であるが、手加減しだいで赤にも青にもなるから色刷などの場合には、絵の具を乾かす時間が省《はぶ》けるだけでも大変重宝で、これを新聞に応用すれば、印気《インキ》や印気ロールの費《ついえ》を節約する上に、全体から云って、少くとも従来の四分の一の手数がなくなる点から見ても、前途は非常に有望な事業であると、小六はまた安之助の話した通りを繰り返した。そうしてその有望な前途を、安之助がすでに手の中《うち》に握ったかのごとき口気《こうき》であった。かつその多望な安之助の未来のなかには、同じく多望な自分の影が、含まれているように、眼を輝やかした。その時宗助はいつもの調子で、むしろ穏やかに、弟の云う事を聞いていたが、聞いてしまった後《あと》でも、別にこれという眼立った批評は加えなかった。実際こんな発明は、宗助から見ると、本当のようでもあり、また嘘のようでもあり、いよいよそれが世間に行われるまでは、賛成も反対もできかねたのである。
「じゃ鰹船《かつおぶね》の方はもう止したの」と、今まで黙っていた御米が、この時始めて口を出した。
「止したんじゃないんですが、あの方は費用が随分かかるので、いくら便利でも、そう誰も彼も拵《こしら》える訳に行かないんだそうです」と小六が答えた。小六は幾分か安之助の利害を代表しているような口振であった。それから三人の間に、しばらく談話が交換されたが、しまいに、
「やっぱり何をしたって、そう旨《うま》く行くもんじゃあるまいよ」と云った宗助の言葉と、
「坂井さんみたように、御金があって遊んでいるのが一番いいわね」と云った御米の言葉を聞いて、小六はまた自分の部屋へ帰って行った。
こう云う機会に、佐伯の消息は折々夫婦の耳へ洩《も》れる事はあるが、そのほかには、全く何をして暮らしているか、互に知らないで過す月日が多かった。
ある時御米は宗助にこんな問を掛けた。
「小六さんは、安さんの所へ行くたんびに、小遣《こづかい》でも貰《もら》って来るんでしょうか」
今まで小六について、それほどの注意を払っていなかった宗助は、突然この問に逢って、すぐ、「なぜ」と聞き返した。御米はしばらく逡巡《ためら》った末、
「だって、この頃よく御酒を呑《の》んで帰って来る事があるのよ」と注意した。
「安さんが例の発明や、金儲《かねもう》けの話をするとき、その聞き賃に奢《おご》るのかも知れない」と云って宗助は笑っていた。会話はそれなりでつい発展せずにしまった。
越えて三日目の夕方に、小六はまた飯時《めしどき》を外《はず》して帰って来なかった。しばらく待ち合せていたが、宗助はついに空腹だとか云い出して、ちょっと湯にでも行って時間を延ばしたらという御米の小六に対する気兼《きがね》に頓着《とんじゃく》なく、食事を始めた。その時御米は夫に、
「小六さんに御酒を止《や》めるように、あなたから云っちゃいけなくって」と切り出した。
「そんなに意見しなければならないほど飲むのか」と宗助は少し案外な顔をした。
御米はそれほどでもないと、弁護しなければならなかった。けれども実際は誰もいない昼間のうちなどに、あまり顔を赤くして帰って来られるのが、不安だったのである。宗助はそれなり放っておいた。しかし腹の中では、はたして御米の云うごとく、どこかで金を借りるか、貰うかして、それほど好きもしないものを、わざと飲むのではなかろうかと疑ぐった。
そのうち年がだんだん片寄って、夜が世界の三分の二を領《りょう》するように押しつまって来た。風が毎日吹いた。その音を聞いているだけでも生活《ライフ》に陰気な響を与えた。小六はどうしても、六畳に籠《こも》って、一日を送るに堪《た》えなかった。落ちついて考えれば考えるほど、頭が淋《さむ》しくって、いたたまれなくなるばかりであった。茶の間へ出て嫂《あによめ》と話すのはなお厭《いや》であった。やむを得ず外へ出た。そうして友達の宅《うち》をぐるぐる回って歩いた。友達も始のうちは、平生《いつも》の小六に対するように、若い学生のしたがる面白い話をいくらでもした。けれども小六はそう云う話が尽きても、まだやって来た。それでしまいには、友達が、小六は、退屈の余りに訪問をして、談話の復習に耽《ふけ》るものだと評した。たまには学校の下読《したよみ》やら研究やらに追われている多忙の身だと云う風もして見せた。小六は友達からそう呑気《のんき》な怠けもののように取り扱われるのを、大変不愉快に感じた。けれども宅に落ちついては、読書も思索も、まるでできなかった。要するに彼ぐらいの年輩の青年が、一人前の人間になる階梯《かいてい》として、修《おさ》むべき事、力《つと》むべき事には、内部の動揺やら、外部の束縛やらで、いっさい手が着かなかったのである。
それでも冷たい雨が
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