横に降ったり、雪融《ゆきどけ》の道がはげしく泥《ぬか》ったりする時は、着物を濡《ぬ》らさなければならず、足袋《たび》の泥を乾かさなければならない面倒があるので、いかな小六も時によると、外出を見合せる事があった。そう云う日には、実際困却すると見えて、時々六畳から出て来て、のそりと火鉢の傍《そば》へ坐って、茶などを注《つ》いで飲んだ。そうしてそこに御米でもいると、世間話の一つや二つはしないとも限らなかった。
「小六さん御酒好き」と御米が聞いた事があった。
「もう直《じき》御正月ね。あなた御雑煮《おぞうに》いくつ上がって」と聞いた事もあった。
 そう云う場合が度重《たびかさ》なるに連《つ》れて、二人の間は少しずつ近寄る事ができた。しまいには、姉さんちょっとここを縫って下さいと、小六の方から進んで、御米に物を頼むようになった。そうして御米が絣《かすり》の羽織を受取って、袖口《そでくち》の綻《ほころび》を繕《つくろ》っている間、小六は何にもせずにそこへ坐《すわ》って、御米の手先を見つめていた。これが夫だと、いつまでも黙って針を動かすのが、御米の例であったが、相手が小六の時には、そう投遣《なげやり》にできないのが、また御米の性質であった。だからそんな時には力めても話をした。話の題目で、ややともすると小六の口に宿りたがるものは、彼の未来をどうしたら好かろうと云う心配であった。
「だって小六さんなんか、まだ若いじゃありませんか。何をしたってこれからだわ。そりゃ兄さんの事よ。そう悲観してもいいのは」
 御米は二度ばかりこういう慰め方をした。三度目には、
「来年になれば、安さんの方でどうか都合して上げるって受合って下すったんじゃなくって」と聞いた。小六はその時|不慥《ふたしか》な表情をして、
「そりゃ安さんの計画が、口でいう通り旨《うま》く行けば訳はないんでしょうが、だんだん考えると、何だか少し当にならないような気がし出してね。鰹船《かつおぶね》もあんまり儲《もう》からないようだから」と云った。御米は小六の憮然《ぶぜん》としている姿を見て、それを時々酒気を帯びて帰って来る、どこかに殺気《さっき》を含んだ、しかも何が癪《しゃく》に障《さわ》るんだか訳が分らないでいてはなはだ不平らしい小六と比較すると、心の中《うち》で気の毒にもあり、またおかしくもあった。その時は、
「本当にね。兄さんにさえ御金があると、どうでもして上げる事ができるんだけれども」と、御世辞でも何でもない、同情の意を表した。
 その夕暮であったか、小六はまた寒い身体《からだ》を外套《マント》に包《くる》んで出て行ったが、八時過に帰って来て、兄夫婦の前で、袂《たもと》から白い細長い袋を出して、寒いから蕎麦掻《そばがき》を拵《こし》らえて食おうと思って、佐伯へ行った帰りに買って来たと云った。そうして御米が湯を沸《わ》かしているうちに、煮出しを拵えるとか云って、しきりに鰹節《かつぶし》を掻《か》いた。
 その時宗助夫婦は、最近の消息として、安之助の結婚がとうとう春まで延びた事を聞いた。この縁談は安之助が学校を卒業すると間もなく起ったもので、小六が房州から帰って、叔母に学資の供給を断わられる時分には、もうだいぶ話が進んでいたのである。正式の通知が来ないので、いつ纏《まとま》ったか、宗助はまるで知らなかったが、ただ折々佐伯へ行っては、何か聞いて来る小六を通じてのみ、彼は年内に式を挙げるはずの新夫婦を予想した。その他には、嫁の里がある会社員で、有福な生計《くらし》をしている事と、その学校が女学館であるという事と、兄弟がたくさんあると云う事だけを、同じく小六を通じて耳にした。写真にせよ顔を知ってるのは小六ばかりであった。
「好い器量?」と御米が聞いた事がある。
「まあ好い方でしょう」と小六が答えた事がある。
 その晩はなぜ暮のうちに式を済まさないかと云うのが、蕎麦掻のでき上る間、三人の話題になった。御米は方位でも悪いのだろうと臆測《おくそく》した。宗助は押しつまって日がないからだろうと考えた。独《ひと》り小六だけが、
「やっぱり物質的の必要かららしいです。先が何でもよほど派出《はで》な家《うち》なんで、叔母さんの方でもそう単簡《たんかん》に済まされないんでしょう」といつにない世帯染みた事を云った。

        十一

 御米《およね》のぶらぶらし出したのは、秋も半《なか》ば過ぎて、紅葉《もみじ》の赤黒く縮《ちぢ》れる頃であった。京都にいた時分は別として、広島でも福岡でも、あまり健康な月日を送った経験のない御米は、この点に掛けると、東京へ帰ってからも、やはり仕合せとは云えなかった。この女には生れ故郷の水が、性《しょう》に合わないのだろうと、疑ぐれば疑ぐられるくらい、御米は一時悩んだ事もあった。

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