う気は無論起らなかった。
 夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪《た》えかねて、抱き合って暖《だん》を取るような具合に、御互同志を頼りとして暮らしていた。苦しい時には、御米がいつでも、宗助に、
「でも仕方がないわ」と云った。宗助は御米に、
「まあ我慢するさ」と云った。
 二人の間には諦《あきら》めとか、忍耐とか云うものが断えず動いていたが、未来とか希望と云うものの影はほとんど射さないように見えた。彼らは余り多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避する風さえあった。御米が時として、
「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」と夫《おっと》を慰さめるように云う事があった。すると、宗助にはそれが、真心《まごころ》ある妻《さい》の口を藉《か》りて、自分を翻弄《ほんろう》する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそう云う場合には何にも答えずにただ苦笑するだけであった。御米がそれでも気がつかずに、なにか云い続けると、
「我々は、そんな好い事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口を噤《つぐ》んでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつの間にか、自分達は自分達の拵《こしら》えた、過去という暗い大きな窖《あな》の中に落ちている。
 彼らは自業自得《じごうじとく》で、彼らの未来を塗抹《とまつ》した。だから歩いている先の方には、花やかな色彩を認める事ができないものと諦《あき》らめて、ただ二人手を携《たずさ》えて行く気になった。叔父の売り払ったと云う地面家作についても、固《もと》より多くの期待は持っていなかった。時々考え出したように、
「だって、近頃の相場なら、捨売《すてうり》にしたって、あの時叔父の拵らえてくれた金の倍にはなるんだもの。あんまり馬鹿馬鹿しいからね」と宗助が云い出すと、御米は淋《さみ》しそうに笑って、
「また地面? いつまでもあの事ばかり考えていらっしゃるのね。だって、あなたが万事|宜《よろ》しく願いますと、叔父さんにおっしゃったんでしょう」と云う。
「そりゃ仕方がないさ。あの場合ああでもしなければ方《ほう》がつかないんだもの」と宗助が云う。
「だからさ。叔父さんの方では、御金の代りに家《うち》と地面を貰ったつもりでいらっしゃるかも知れな
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