気を留めなかった。今日役所で同僚が、この間|英吉利《イギリス》から来遊したキチナー元帥に、新橋の傍《そば》で逢《あ》ったと云う話を思い出して、ああ云う人間になると、世界中どこへ行っても、世間を騒がせるようにできているようだが、実際そういう風に生れついて来たものかも知れない。自分の過去から引き摺《ず》ってきた運命や、またその続きとして、これから自分の眼前に展開されべき将来を取って、キチナーと云う人のそれに比べて見ると、とうてい同じ人間とは思えないぐらい懸《か》け隔《へだ》たっている。
 こう考えて宗助はしきりに煙草《たばこ》を吹かした。表は夕方から風が吹き出して、わざと遠くの方から襲《おそ》って来るような音がする。それが時々やむと、やんだ間は寂《しん》として、吹き荒れる時よりはなお淋《さび》しい。宗助は腕組をしながら、もうそろそろ火事の半鐘《はんしょう》が鳴り出す時節だと思った。
 台所へ出て見ると、細君は七輪《しちりん》の火を赤くして、肴《さかな》の切身を焼いていた。清《きよ》は流し元に曲《こご》んで漬物を洗っていた。二人とも口を利《き》かずにせっせと自分のやる事をやっている。宗助は障子《しょうじ》を開けたなり、しばらく肴から垂《た》る汁《つゆ》か膏《あぶら》の音を聞いていたが、無言のまままた障子を閉《た》てて元の座へ戻った。細君は眼さえ肴から離さなかった。
 食事を済まして、夫婦が火鉢を間《あい》に向い合った時、御米はまた
「佐伯の方は困るのね」と云い出した。
「まあ仕方がない。安さんが神戸から帰るまで待つよりほかに道はあるまい」
「その前にちょっと叔母さんに逢って話をしておいた方が好かなくって」
「そうさ。まあそのうち何とか云って来るだろう。それまで打遣《うっちゃ》っておこうよ」
「小六さんが怒ってよ。よくって」と御米はわざと念を押しておいて微笑した。宗助は下眼を使って、手に持った小楊枝《こようじ》を着物の襟《えり》へ差した。
 中一日《なかいちんち》置いて、宗助はようやく佐伯からの返事を小六に知らせてやった。その時も手紙の尻《しり》に、まあそのうちどうかなるだろうと云う意味を、例のごとく付け加えた。そうして当分はこの事件について肩が抜けたように感じた。自然の経過《なりゆき》がまた窮屈に眼の前に押し寄せて来るまでは、忘れている方が面倒がなくって好いぐらいな顔をし
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