ている風につけ足して、生温《なまぬる》い眼を挙げて細君を見た。御米はぴたりと黙ってしまった。
「あなた御菓子食べなくって」と、しばらくしてから小六の方へ向いて話し掛けたが、
「ええ食べます」と云う小六の返事を聞き流して、ついと茶の間へ立って行った。兄弟はまた差向いになった。
電車の終点から歩くと二十分近くもかかる山の手の奥だけあって、まだ宵《よい》の口《くち》だけれども、四隣《あたり》は存外静かである。時々表を通る薄歯の下駄の響が冴《さ》えて、夜寒《よさむ》がしだいに増して来る。宗助は懐手《ふところで》をして、
「昼間は暖《あっ》たかいが、夜になると急に寒くなるね。寄宿じゃもう蒸汽《スチーム》を通しているかい」と聞いた。
「いえ、まだです。学校じゃよっぽど寒くならなくっちゃ、蒸汽なんか焚《た》きゃしません」
「そうかい。それじゃ寒いだろう」
「ええ。しかし寒いくらいどうでも構わないつもりですが」と云ったまま、小六はすこし云い淀《よど》んでいたが、しまいにとうとう思い切って、
「兄さん、佐伯《さえき》の方はいったいどうなるんでしょう。先刻《さっき》姉さんから聞いたら、今日手紙を出して下すったそうですが」
「ああ出した。二三日中に何とか云って来るだろう。その上でまたおれが行くともどうともしようよ」
小六は兄の平気な態度を、心の中《うち》では飽足らず眺《なが》めた。しかし宗助の様子にどこと云って、他《ひと》を激させるような鋭《する》どいところも、自《みずか》らを庇護《かば》うような卑《いや》しい点もないので、喰《く》ってかかる勇気はさらに出なかった。ただ
「じゃ今日《きょう》まであのままにしてあったんですか」と単に事実を確めた。
「うん、実は済まないがあのままだ。手紙も今日やっとの事で書いたくらいだ。どうも仕方がないよ。近頃神経衰弱でね」と真面目《まじめ》に云う。小六は苦笑した。
「もし駄目なら、僕は学校をやめて、いっそ今のうち、満洲か朝鮮へでも行こうかと思ってるんです」
「満洲か朝鮮? ひどくまた思い切ったもんだね。だって、御前|先刻《さっき》満洲は物騒で厭《いや》だって云ったじゃないか」
用談はこんなところに往ったり来たりして、ついに要領を得なかった。しまいに宗助が、
「まあ、好いや、そう心配しないでも、どうかなるよ。何しろ返事の来しだい、おれがすぐ知らせてやる
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