御米は、
「そう。でも厭《いや》ねえ。殺されちゃ」と云った。
「おれみたような腰弁《こしべん》は、殺されちゃ厭だが、伊藤さんみたような人は、哈爾賓《ハルピン》へ行って殺される方がいいんだよ」と宗助が始めて調子づいた口を利《き》いた。
「あら、なぜ」
「なぜって伊藤さんは殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ。ただ死んで御覧、こうはいかないよ」
「なるほどそんなものかも知れないな」と小六は少し感服したようだったが、やがて、
「とにかく満洲だの、哈爾賓だのって物騒な所ですね。僕は何だか危険なような心持がしてならない」と云った。
「そりゃ、色んな人が落ち合ってるからね」
この時御米は妙な顔をして、こう答えた夫の顔を見た。宗助もそれに気がついたらしく、
「さあ、もう御膳《おぜん》を下げたら好かろう」と細君を促《うな》がして、先刻《さっき》の達磨《だるま》をまた畳の上から取って、人指指《ひとさしゆび》の先へ載《の》せながら、
「どうも妙だよ。よくこう調子好くできるものだと思ってね」と云っていた。
台所から清《きよ》が出て来て、食い散らした皿小鉢《さらこばち》を食卓ごと引いて行った後で、御米も茶を入れ替えるために、次の間へ立ったから、兄弟は差向いになった。
「ああ奇麗《きれい》になった。どうも食った後は汚ないものでね」と宗助は全く食卓に未練のない顔をした。勝手の方で清がしきりに笑っている。
「何がそんなにおかしいの、清」と御米が障子越《しょうじごし》に話しかける声が聞えた。清はへえと云ってなお笑い出した。兄弟は何にも云わず、半《なか》ば下女の笑い声に耳を傾けていた。
しばらくして、御米が菓子皿と茶盆を両手に持って、また出て来た。藤蔓《ふじづる》の着いた大きな急須《きゅうす》から、胃にも頭にも応《こた》えない番茶を、湯呑《ゆのみ》ほどな大きな茶碗《ちゃわん》に注《つ》いで、両人《ふたり》の前へ置いた。
「何だって、あんなに笑うんだい」と夫が聞いた。けれども御米の顔は見ずにかえって菓子皿の中を覗《のぞ》いていた。
「あなたがあんな玩具《おもちゃ》を買って来て、面白そうに指の先へ乗せていらっしゃるからよ。子供もない癖に」
宗助は意にも留めないように、軽く「そうか」と云ったが、後《あと》から緩《ゆっ》くり、
「これでも元は子供があったんだがね」と、さも自分で自分の言葉を味わっ
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