磨はそれぎり話題に上《のぼ》らなかったが、これが緒《いとくち》になって、三人は飯の済むまで無邪気に長閑《のどか》な話をつづけた。しまいに小六が気を換えて、
「時に伊藤さんもとんだ事になりましたね」と云い出した。宗助は五六日前伊藤公暗殺の号外を見たとき、御米の働いている台所へ出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」と云って、手に持った号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入《はい》ったが、その語気からいうと、むしろ落ちついたものであった。
「あなた大変だって云う癖に、ちっとも大変らしい声じゃなくってよ」と御米が後《あと》から冗談《じょうだん》半分にわざわざ注意したくらいである。その後日ごとの新聞に伊藤公の事が五六段ずつ出ない事はないが、宗助はそれに目を通しているんだか、いないんだか分らないほど、暗殺事件については平気に見えた。夜帰って来て、御米が飯の御給仕をするときなどに、「今日も伊藤さんの事が何か出ていて」と聞く事があるが、その時には「うんだいぶ出ている」と答えるぐらいだから、夫の隠袋《かくし》の中に畳んである今朝の読殻《よみがら》を、後《あと》から出して読んで見ないと、その日の記事は分らなかった。御米もつまりは夫が帰宅後の会話の材料として、伊藤公を引合に出すぐらいのところだから、宗助が進まない方向へは、たって話を引張りたくはなかった。それでこの二人の間には、号外発行の当日以後、今夜小六がそれを云い出したまでは、公《おおや》けには天下を動かしつつある問題も、格別の興味をもって迎えられていなかったのである。
「どうして、まあ殺されたんでしょう」と御米は号外を見たとき、宗助に聞いたと同じ事をまた小六に向って聞いた。
「短銃《ピストル》をポンポン連発したのが命中《めいちゅう》したんです」と小六は正直に答えた。
「だけどさ。どうして、まあ殺されたんでしょう」
 小六は要領を得ないような顔をしている。宗助は落ちついた調子で、
「やっぱり運命だなあ」と云って、茶碗の茶を旨《うま》そうに飲んだ。御米はこれでも納得《なっとく》ができなかったと見えて、
「どうしてまた満洲《まんしゅう》などへ行ったんでしょう」と聞いた。
「本当にな」と宗助は腹が張って充分物足りた様子であった。
「何でも露西亜《ロシア》に秘密な用があったんだそうです」と小六が真面目《まじめ》な顔をして云った。
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