、そうして緩《ゆっ》くり晩食《ばんめし》を食おうと思って、急いで格子《こうし》を開けた。台所の方で皿小鉢《さらこばち》の音がする。上がろうとする拍子《ひょうし》に、小六《ころく》の脱《ぬ》ぎ棄《す》てた下駄《げた》の上へ、気がつかずに足を乗せた。曲《こご》んで位置を調《ととの》えているところへ小六が出て来た。台所の方で御米《およね》が、
「誰? 兄さん?」と聞いた。宗助は、
「やあ、来ていたのか」と云いながら座敷へ上った。先刻《さっき》郵便を出してから、神田を散歩して、電車を降りて家へ帰るまで、宗助の頭には小六の小の字も閃《ひら》めかなかった。宗助は小六の顔を見た時、何となく悪い事でもしたようにきまりが好くなかった。
「御米、御米」と細君を台所から呼んで、
「小六が来たから、何か御馳走《ごちそう》でもするが好い」と云いつけた。細君は、忙がしそうに、台所の障子《しょうじ》を開け放したまま出て来て、座敷の入口に立っていたが、この分り切った注意を聞くや否や、
「ええ今|直《じき》」と云ったなり、引き返そうとしたが、また戻って来て、
「その代り小六さん、憚《はばか》り様《さま》。座敷の戸を閉《た》てて、洋灯《ランプ》を点《つ》けてちょうだい。今|私《わたし》も清《きよ》も手が放せないところだから」と依頼《たの》んだ。小六は簡単に、
「はあ」と云って立ち上がった。
 勝手では清が物を刻む音がする。湯か水をざあと流しへ空《あ》ける音がする。「奥様これはどちらへ移します」と云う声がする。「姉さん、ランプの心《しん》を剪《き》る鋏《はさみ》はどこにあるんですか」と云う小六の声がする。しゅうと湯が沸《たぎ》って七輪《しちりん》の火へかかった様子である。
 宗助は暗い座敷の中で黙然《もくねん》と手焙《てあぶり》へ手を翳《かざ》していた。灰の上に出た火の塊《かた》まりだけが色づいて赤く見えた。その時裏の崖《がけ》の上の家主《やぬし》の家の御嬢さんがピヤノを鳴らし出した。宗助は思い出したように立ち上がって、座敷の雨戸を引きに縁側《えんがわ》へ出た。孟宗竹《もうそうちく》が薄黒く空の色を乱す上に、一つ二つの星が燦《きら》めいた。ピヤノの音《ね》は孟宗竹の後《うしろ》から響いた。

        三

 宗助《そうすけ》と小六《ころく》が手拭《てぬぐい》を下げて、風呂《ふろ》から帰って来た時
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