ましてもらって、それを袂《たもと》へ入れた。奇麗《きれい》な床屋へ行って、髪を刈りたくなったが、どこにそんな奇麗なのがあるか、ちょっと見つからないうちに、日が限《かぎ》って来たので、また電車へ乗って、宅《うち》の方へ向った。
宗助が電車の終点まで来て、運転手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失いかけて、湿った往来に、暗い影が射《さ》し募《つの》る頃であった。降りようとして、鉄の柱を握ったら、急に寒い心持がした。いっしょに降りた人は、皆《みん》な離れ離れになって、事あり気に忙がしく歩いて行く。町のはずれを見ると、左右の家の軒から家根《やね》へかけて、仄白《ほのしろ》い煙りが大気の中に動いているように見える。宗助も樹《き》の多い方角に向いて早足に歩を移した。今日の日曜も、暢《のん》びりした御天気も、もうすでにおしまいだと思うと、少しはかないようなまた淋《さみ》しいような一種の気分が起って来た。そうして明日《あした》からまた例によって例のごとく、せっせと働らかなくてはならない身体《からだ》だと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六日半《むいかはん》の非精神的な行動が、いかにもつまらなく感ぜられた。歩いているうちにも、日当の悪い、窓の乏しい、大きな部屋の模様や、隣りに坐《すわ》っている同僚の顔や、野中さんちょっとと云う上官の様子ばかりが眼に浮かんだ。
魚勝と云う肴屋《さかなや》の前を通り越して、その五六軒先の露次《ろじ》とも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高い崖《がけ》で、その左右に四五軒同じ構《かまえ》の貸家が並んでいる。ついこの間までは疎《まば》らな杉垣の奥に、御家人《ごけにん》でも住み古したと思われる、物寂《ものさび》た家も一つ地所のうちに混《まじ》っていたが、崖の上の坂井《さかい》という人がここを買ってから、たちまち萱葺《かやぶき》を壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請《ふしん》に建て易《か》えてしまった。宗助の家《うち》は横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこを択《えら》んだのである。
宗助は七日《なのか》に一返の日曜ももう暮れかかったので、早く湯にでも入《い》って、暇があったら髪でも刈って
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