近頃はそれがだんだん落ちついて来て、宗助《そうすけ》の気を揉《も》む機会《ばあい》も、年に幾度と勘定《かんじょう》ができるくらい少なくなったから、宗助は役所の出入《でいり》に、御米はまた夫の留守の立居《たちい》に、等しく安心して時間を過す事ができたのである。だからことしの秋が暮れて、薄い霜《しも》を渡る風が、つらく肌を吹く時分になって、また少し心持が悪くなり出しても、御米はそれほど苦にもならなかった。始のうちは宗助にさえ知らせなかった。宗助が見つけて、医者に掛かれと勧めても、容易に掛からなかった。
そこへ小六《ころく》が引越して来た。宗助はその頃の御米を観察して、体質の状態やら、精神の模様やら、夫《おっと》だけによく知っていたから、なるべくは、人数《ひとかず》を殖《ふ》やして宅《うち》の中を混雑《ごたつ》かせたくないとは思ったが、事情やむを得ないので、成るがままにしておくよりほかに、手段の講じようもなかった。ただ口の先で、なるべく安静にしていなくてはいけないと云う矛盾した助言は与えた。御米は微笑して、
「大丈夫よ」と云った。この答を得た時、宗助はなおの事安心ができなくなった。ところが不思議にも、御米の気分は、小六が引越して来てから、ずっと引立った。自分に責任の少しでも加わったため、心が緊張したものと見えて、かえって平生よりは、かいがいしく夫や小六の世話をした。小六にはそれがまるで通じなかったが、宗助から見ると、御米が在来よりどれほど力《つと》めているかがよく解った。宗助は心のうちで、このまめやかな細君に新らしい感謝の念を抱《いだ》くと同時に、こう気を張り過ぎる結果が、一度に身体《からだ》に障《さわ》るような騒ぎでも引き起してくれなければいいがと心配した。
不幸にも、この心配が暮の二十日過《はつかすぎ》になって、突然事実になりかけたので、宗助は予期の恐怖に火が点《つ》いたように、いたく狼狽《ろうばい》した。その日は判然《はっきり》土に映らない空が、朝から重なり合って、重い寒さが終日人の頭を抑《おさ》えつけていた。御米は前の晩にまた寝られないで、休ませ損《そく》なった頭を抱えながら、辛抱して働らき出したが、起《た》ったり動いたりするたびに、多少脳に応《こた》える苦痛はあっても、比較的明るい外界の刺戟《しげき》に紛《まぎ》れたためか、じっと寝ていながら、頭だけが冴《
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