見受けました。要するに水でも樹《き》でも、人の顔でも凡《すべ》てあなたの眼にうつるものは、決して彫刻的にあなたを刺戟《しげき》していないように見えます。全く絵画的にあなたの眸《ひとみ》を彩《いろ》どるのだろうと思います。しかもアンプレショニストのそれの如く極めて柔かです。そうして何処《どこ》かに判然しないチャームを持っています。だから私は「荒布橋《あらめばし》」の冒頭に出てくる燕《つばめ》の飛ぶ様子や、「夷講《えびすこう》」の酒宴の有様を叙するくだりに出会った時、大変驚ろいたのです。二つのものは平生のあなたの筆で書きこなされたものとは思えない位硬いのです。
 要するに貴方の小説に有り余る程出てくるのは一種独特のムードでしょう。だから夫《それ》がまとまらない上に、筋が通らないとか、又は主人公の哲学観などが露骨に出てくると、一方が一方を殺して、少し平生の御手際《おてぎわ》に似合わない段違いのものが出来はしまいかと疑われます。「荒布橋」とか、「岡田君の日記」とか、「六月の夜」の一部分とかになると、其所《そこ》に手荒で変に不調和なものが露《あら》われているようです。其代りよし気分|丈《だけ》のものでも筋のまとまらない「河岸《かし》の夜」といったような、(其中には六《む》ずかしい議論も織り込まれてはいるが)ただ装飾的で左程《さほど》他《ひと》の情緒をそそる事の出来ないものもあると申し添えなければならなくなります。悪口の序《ついで》だから、「北より南へ」という短篇の評も此処《ここ》に付け加えて置きたいと思います。ああ云った調子のものは、アナトール・フランスの短篇に沢山《たくさん》あります。そうして遺憾《いかん》ながら彼の方が貴方よりずっと旨《うま》いと思います。
 あなたの作に就いて情調とか、ムードとか云うものを挙《あ》げて、それを具合好く説明すれば、既に大半の批評は出来上ったように考えられるのですが、其ムードを作り上げるために、河岸《かし》の寿司屋《すしや》とか、通りの丸花とか、乃至《ないし》は坊間の音曲など丈《だけ》が道具になっているという意味では決してないのです。あなたの書き下す人間が、人間として一人前に活動しつつ、同時に其一篇のムードを構成している事は疑もない事実です。亮さんでも、京さんでも、彼等のする事は皆此両様の主意を同時に満足させてるではありませんか。「三人の従兄
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