模倣と独立
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)図《はか》らず
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大分|縁故《えんこ》の深い学校であります。
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「者/火」、第3水準1−87−52]
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今日は図《はか》らず御招きに預《あずか》りまして突然参上致しました次第でありますが、私は元この学校で育った者で、私にとってはこの学校は大分|縁故《えんこ》の深い学校であります。にもかかわらず、今日までこういう、即ち弁論部の御招待に預って、諸君の前に立った事は御座いませんでした。尤《もっと》も御依頼も御座いませんでした。また遣《や》る気もありませんでした。ただ今私を御紹介下さった速水《はやみ》君は知人であります。昔は御弟子で今は友達――いや友達以上の偉い人であります。しかし、知り合《あい》ではありますけれども、速水さんから頼まれた訳でもありません。今度私が此処《ここ》に現われたのは安倍能成《あべよししげ》という――これも偉い人で、やはり私の教えた人でありますが――その人が何でも弁論部の方と御懇意《ごこんい》だというので、その安倍能成君を通じての御依頼であります。その時私は実は御断りをしたかった。というのは、近来頭の具合が悪い。というよりも、頭の働き方がこういう所へ参って、組織立った御話をするに適しないようになっております。――一口に言えば、面倒臭《めんどうくさ》いので、一応は御断りを致したのであります。けれども私の断り方がよほど正直だったので、――是非遣らなければならないならば出るが、まあどうか許してもらいたい――こういう風に返辞をした。ところが是非遣らなければならんから出ろ、というのです。後から考えると、余り私が正直過ぎたと思います。尤《もっと》も、是非遣らなければならんというのはどういう訳だ、といって問い詰めるほどの問題でもありませんから、遣らなければならんものとして出て参りました。安倍君は君子であります。頼んだ事は引き受けさせようという方の君子。速水君も君子であります。これは頼まない方の君子、遠慮された方の君子でありますが。そういう訳で今日は出ましたので、演説をする前に言訳《いいわけ》がましい事をいうのは甚《はなは》だ卑怯なようでありますけれども、大して面白い事も御話は出来ないと思いますし、また問題があっても、学校の講義見たように秩序の立った御話は出来|兼《か》ねるだろうと思います。安倍君|曰《いわ》く、何を言ったって構いません、喜んで聴いているでしょう。
それに、私は此校《ここ》で教師をしていたことがあります。その時分の生徒は皆恐らく今|此所《ここ》には一人もいないでしょう、卒業したでしょうけれども、しかし貴方がたはその後裔《こうえい》といいますか、跡続《あとつ》ぎ見たような子分見たような者で、その親分をこの教場で度々|虐《いじ》めていた事などがあるから、その子か孫に当るような人などは何とも思っておらんので、チャンと準備をして出て来るほど旨《うま》く行かなかった。
私は教師としてこの学校に四年間おりました。のみならずその以前には、貴方がたのように、生徒としてこの学校に――何年間おりましたか知らん――落第したと思っちゃいけません。元々私は此所《ここ》へ這入《はい》って来たのじゃない。この学校が予備門といって丁度一ツ橋|外《そと》にありました。今の高等商業のある界隈《かいわい》一面がこの学校兼大学であった。明治十七年、貴方がたがまだ生れない先、私は其所《そこ》へ這入ったのです。それから――実は落第しております。落第して愚図愚図《ぐずぐず》している内にこの学校が出来た。この学校が出来て最も新らしい所へいの一番に乗り込んだ者は私――だけではないが、その一人は確かに私である。われわれの教室は本館の一番北の外《はず》れの、今食堂になっている、あそこにありました。文科の教室で。それが明治二十二年位でした。その時分の事を今の貴方がたに比べると、われわれ時代の書生というものは乱暴で、よほど不良少年という傾き――人によるとむしろ気概《きがい》があった。天下国家を以て任じて威張《いば》っておった。われわれの年配の人は、いつも今の若い者はというような事をいっては、自分たちの若い時が一番偉かったように思っているけれども、私はそうは思わない。今でもそうは思わない。貴方がたの前に立ってこうして御話をするときは、なおそう思わない。貴方がたの方がわれわれ時代の者よりよほど偉い。先刻《さっき》から偉い偉いということを速水君が言われましたが、貴方がたの方が遥《はる》かに大人《おとな》しい、能《よ》く出来ていると思います。われわれは実に乱暴であった。その悪戯《いたずら》の例はいくらもあります。それを御話するために此処へ登ったんじゃないが、如何にわれわれが悪かったかということを懺悔《ざんげ》するために御話するのであるから、その真似をしちゃいけませんよ。現に彼処《あすこ》に教場に先生の机がある。先ず私たちは時間の合間《あいま》合間に砂糖わりの豌豆豆《えんどうまめ》を買って来て教場の中で食べる。その豌豆豆が残るとその残った豌豆豆を先生の机の抽斗《ひきだし》の中に入れて置く。歴史の先生に長沢市蔵という人がいる。われわれがこれを渾名《あだな》してカッパードシヤといっている。何故カッパードシヤというかというと、なんでもカッパードシヤとか何とかいう希臘《ギリシャ》の地名か何かある。今は忘れてしまいましたが、希臘の歴史を教える時、その先生がカッパードシヤカッパードシヤと一時間の内幾回となく繰り返す。それでカッパードシヤという渾名が付いた。この長沢先生の時間と覚えておりますが、その先生がカッパードシヤカッパードシヤとボールドへ書くので、そのカッパードシヤを書こうとしてチョークを捜すために抽斗を明けると、その抽斗の中から豆ががらがらと出て来たというような話がある。これは先生を侮辱《ぶじょく》した訳ではありません、また先生に見せるためにわざわざ遣ったのでもありませんが、とにかくよほど予備門などにおったわれわれ時代の書生の風儀《ふうぎ》は乱暴でありました。現にこの学校の中を下駄《げた》で歩くのです。私も下駄で始終歩いた一人で、今はついでだから話しますが、私が此所に這入った時に丁度|杉浦重剛《すぎうらしげたけ》先生が校長で此所《ここ》の呼び者になっていた。この時二十八歳だったかと思います。大変若くて呼び者であったが、暫くするとこういう貼出《はりだ》しが出ました。学校の中を下駄を穿《は》いて歩いてはいけない。それは当然の事ですが、わざわざ貼り出さなければならんほど下駄を穿いて歩いていたものと私は考える。然《しか》るに貼出しがあって暫くしても、私は下駄を穿いて歩いていた。或日の事、丁度三時過ぎです。今頃で、もう誰もいまいと思って、下駄を穿いて、威張って歩けと思って、ドンドン歩いて行った。すると廊下を曲る途端《とたん》に杉浦重剛さんにパタリと出会った。私は乱暴書生ではない。極《ご》く気の小さい大人しい者である。杉浦さんに出会ってどうしたと思います。私は急に下駄から飛び降りた。飛び降りたばかりではありません、飛び降りていきなり下駄を握って一目散《いちもくさん》に逃げ出しました。だから一口も叱られもせずまた捉《つか》まえられもせずに済んでしまった。これは唯自分で覚えているだけで人に話した事はありません、今日初めて位のものでありますが、この間《あいだ》或所で杉浦先生に久々《ひさびさ》ぶりで御目に掛った。大分先生も年を取っておられる。その時私が、先生こういう事を覚えて御出《おい》でですか、私は下駄を穿いて歩いてこうこうだったと御話したら、杉浦さんは、いやそれはどうも大変な違いだ、私は下駄を穿いて学校を歩くことは大賛成である、穿いちゃあならんという貼出しが出たのは、あれは文部省が悪い。とかく文部省はやかましい事を言うが、私はその下駄論者だったと言う。私も驚いて、杉浦さんが下駄論者だと仰《おっ》しゃるのはどういう訳ですかと聞くと、先生の曰《いわ》く、そもそも下駄は歯が二本しかない、それでいくら学校の中を下駄で歩いたところで、床に印する足跡というものは二本の歯の底だけである、しかるに靴は踵《かかと》から爪先《つまさき》まで足の裏一面が着くじゃないか。もしこれが両方とも同じ程度に汚すのであるならば、学校の床を汚す面積は靴の方が下駄より遥かに偉大である、だから私はその下駄で差支ないということを切《しき》りに主張したが、どうも文部省の当局が分らないから、それでやむをえずああいう貼出しをした。それじゃ私は逃げる所《どころ》でなかった大いに賞められて然《しか》るべきであった惜しい事をした、といって笑った。その時分は杉浦さんも二十八位でまだ若かったから暴論を吐いて文部省を弱らせたのでしょう。下駄の方が宜《よ》いという訳はないと考えるのです。まあそういうような時代を貴方がたが想像したら、随分乱暴な奴が沢山おったということが御分りになるでしょうが、実際今よりも悪い悪戯《いたずら》な奴が沢山おった。ストーブをドンドン焚《た》いて先生を火攻《ひぜめ》にしたり、教場を真闇《まっくら》にして先生がいきなり這入って来ても何処も分らないような事をしたり、そういう所を経過して始めて此校《ここ》へ這入ったものであります。
それから此校《ここ》に二年ばかりおって、大学に入って、大分御無沙汰をして、それから外国に行きまして、外国から帰って来て、復《ま》た此校《ここ》へ這入った。故郷へ錦《にしき》を着るというほどでもないが、まあ教師になって這入った。そうして初めて教えたのが、今いう安倍能成君らであります。此校《ここ》を出て、大学を出て、諸方を迂路《うろ》ついている時に教えたのが、此処《ここ》にいる速水君であります。速水君を教える時分は熊本で教員生活をしておった時で漂泊生《ひょうはくせい》でありました。速水君を教えていた時分は偉くなかった、あるいは偉い事を知らなかったか、どっちかでしょう。とにかく速水君を教えた事は確かであります。形式的に。無論偉くない人だから本統《ほんとう》に啓発するほど教えなかったが、教場に立って先生と呼ばれ、生徒と呼んだことは確かにある。なお自白すれば、熊本に来たてであります。私の前に誰か英語を受持っておって、私はその後を引受けた。エドマンド・バークの何とかいう本でありますが、それは私の嫌《きらい》な本です。これ位解らない本はない。演説でも英吉利《イギリス》人が解るものならば日本人が字引を引いて解らないことはないはずである。が、実際解らない本です。その解らない物を教えた時に丁度速水君が生徒だったから、偉くない偉くないという考えが何時《いつ》までも退《の》かないのかも知れません。それでその後英語も大分教えて年功《ねんこう》を積みましたが、速水君に断りますが、その後発達した今日の私の英語の力でも、あのバークの論文はやはり解らない。嘘だと思うなら速水君があれを教えて御覧になれば直《す》ぐ分る。――こんな下らない事を言って時間ばかり経って御迷惑でありましょうが、実は時間を潰すために、そういう事を言うのであります。大した問題もありませんから。
それで、先刻演題という話でしたが、演題というようなものはないから、何か好加減《いいかげん》に一つ題は貴方がたの方で後で拵《こしら》えて下さい。チョッと複雑過ぎて簡単な題にならんような高尚な事なんだろうと思う。何か御話しようと思いましたが、実は先刻申上げたような訳で、時間もなし、今日も人が来ますし、チッとも考えられない。それだからいう事は余り大した事ではありません。が、もう少しの間、極《ご》く雑《ざっ》としたところを御話して御免|蒙《こうむ》る事にしましょう。
私はこの間《あいだ》文
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