展《ぶんてん》を見に行きました。(私は御存知の通り、職業が職業ですから、御話する事は一般の事でも、あるいは文芸ということが例になったり、またその方から出立《しゅったつ》する事が多いかも知れませんから、その方に興味のない方《かた》には御気の毒ですが、まあ仕方がない、御聴きを願います。)で、今申しましたように、この間《あいだ》文展を見に行きました。それで文展を見てチョッと感じました。どうも私は文部省の展覧会に反対をしたり、博士を辞したり、甚《はなは》だ文部省に受けが悪い人間でありますが今度の文展も公《おおやけ》には書きませんでしたが、どうも大変面白くありませんでした。殊に私は日本画の方で、まあそうだと思います。西洋画の方についてもいえばいえますが、その方は後にして置いて、日本画の方について申します。
 一向《いっこう》面白くなかった。あの画の内どれを見ても面白くない。中には例外はありますけれども、どれを見ても面白くない。唯面白くないといっても分らぬから、訳をいわなくちゃならんが、どれを見てもノッペリしている。ノッペリしているという意味は御手際《おてぎわ》が好いというので、褒《ほ》めているのかといえば、そうではない。悪く言う意味で、御手際が大変好いのです。言葉を換えていえば、腕力はある、腕の力はある。それじゃ何処が悪いかと言えば、頭がない。頭がなくて手だけで描いている。職人見たようなものである。そうまでいうと御気の毒だから、それだけは公にしません。――これだけ公にしていれば沢山だが――私は別に画家や文展の非難を遣《や》っているのではありません、画家を個人的に悪口を言っている訳ではありません。ただ感じた事についてチョッと必要だから申すのでありますが、唯ノッペリとしている。例えばシミ[#「シミ」に傍点]がなく、マダラ[#「マダラ」に傍点]がなく、ムラ[#「ムラ」に傍点]がなく、仕上げが綺麗に出来ている。ああいう手際というものは、丁稚奉公《でっちぼうこう》をして五年十年|遣《や》らなければ出来ないでしょうけれども、それ以外に何かあるかと聞かれても、私には分らない。丁度人間でいいますと、やはり紳士というものに能《よ》く似ていると思う。紳士とはどんな者かというと、紳士というものは、唯ノッペリしている。顔ばかりじゃありません。マナーが――態度及び挙止動作《きょしどうさ》が――ノッペリしている人間で、手を出して握手をしたりする。下層社会の女などがよくあの人は様子《ようす》が宜《い》いということをいうが、様子が宜い位で女に惚れられるのは、男子の不面目《ふめんぼく》だと思います。様子が宜いというのは、人を外《そ》らさないということになる。唯|御座《おざ》なりを言うということになる。余りブッキラボーでない、当《あた》り触《さわ》りが宜いというので御座います。鮮《あざや》かで穏かで寔《まこと》に宜い。それは悪い事とは思いません。そういう人に接している方が野蛮人に接しているよりは宜い。一口感情を害しても直《す》ぐに擲《なぐ》られるというような人より宜い。それを攻撃する訳じゃありませんが、しかしそれだけでは人格問題じゃない。人格問題じゃないというのは――随分悪い事をして、人の金をただ取るとか、法律に触れるような事をしないまでも非道《ひど》いずるい事をしたり、種々雑多な事をやって、立派な家に這入って、自動車なんぞに乗って、そうして会って見ると寔《まこと》に調子が好くて、品《ひん》が好くて、ノッペリしている。そうして人格というものはどうかというと、余り感服《かんぷく》出来ない人が沢山ありましょう。それが紳士だと思ってはいけません。けれどもそういう者が紳士として通用している。つまり人格から出た品位を保っている本統《ほんとう》の紳士もありましょうが、人格というものを度外《どがい》に置いて、ただマナーだけを以て紳士だとして立派に通用している人の方が多いでしょう。まあ八割位はそうだろうと思います。それで文展の絵を見てどっちの方の紳士が多いかというと、人格の乏しい絵だ。人格の乏しい絵だといって、何も泥棒が絵描になっているというような訳ではない。そういう侮辱の意味じゃない。けれども尊敬した意味じゃ無論ない。大変どうも頭が――何といって宜《よ》いか――気高《けだか》いというものがない。御覧になっても分る。気高いということは富士山や御釈迦様《おしゃかさま》や仙人などを描いて、それで気高いという訳じゃない。仮令《たとい》馬を描いても気高い。猫をかいたら――なお気高い。草木禽獣《そうもくきんじゅう》、どんな小さな物を描いても、どんなインシグニフィカントな物を描いても、気高いものはいくらもあります。そういうような意味の絵にはどうも欠乏し切っているのが文展である。これを逆にいうと、そういう絵を排斥しているのが文展である。こういう訳であるから、それが一列一帯にチャンと御手際だけは出来ておらないといけない。御手際が出来てない物は皆落第する――のですかどうか分らないが、とにかくそういうことを私は文展において認め、かつその文展における絵の特色と人間の特色と相対していわゆるゼントルマンに比較して考えたのであります。
 それからその次に或《ある》人が外国から帰って展覧会を開いた、それを見に往きました。二人でありました。その一人の絵を見ると、油絵で西洋の色々な絵を描いている。アンプレッショニストのような絵も描いている。クラシカルな、ルーベンスなどに非常に能《よ》く似たような絵も描いている。仏蘭西《フランス》派であるが、あれを公平に考えて見ると、彼《あ》の人は何処《どこ》に特色があるだろう。他人《ひと》の絵を描いている。自分というものが何処にもないようですね。巧《うま》い拙《まず》いにかかわらず、他人の描いたようなものはいくらでも描くんですが、それじゃ自分は何所《どこ》にあるかというと、チョッと何所にあるか見えないような絵を展覧会で見せられました。その次にもう一つの外国から帰った人の絵を見た。それは品《ひん》の宜《よ》い、大人《おとな》しい絵でした。それで誰が見ても、まあ悪感情を催さない絵でありました。私はその中の一つを買って来て家の書斎に掛けようかと思いました。が、止《よ》しました。けれども、まあ買っても宜いとは思いました。何故買っても宜いといいますと、相当に出来ているからです。内へ持って来て掛けるのは何故かというと、英吉利風《イギリスふう》の絵なら絵を、相当に描きこなしておって、部屋の装飾として突飛《とっぴ》でない、丁度平凡でチョッと好《よ》かろうと思ったから買って来ようかと思ったけれども、買って来ませんでした。その人の絵は誰が見ても習った絵だということが分る。習って或《ある》程度まで進んだ絵である。それだから見苦しくない、ということは分る。その代りその作者を俟《ま》って初めて描けるような絵は一つもないのです。例えばその内の一《ひとつ》を選んで内に掛けるにしても、その特別なる画家を煩《わずら》わさないでも、外《ほか》の人に頼んでも、それと同じような絵が出来そうな絵でありました。それから私はもう一つ見ました。これは日本にいる人で、日本にいる人の或《ある》外国の絵でありました。前の二つは帝国ホテル及び精養軒《せいようけん》という立派な料理屋で見ました。御客様もどうも華やかな人が多い。中には振袖《ふりそで》を着ている女などがおりました、あんな女などに解るのかと思うほどでした。第三に見たのは、これはどうも反対ですね。所は読売新聞の三階でした。見物人はわれわれ位の紳士だけれども、何だか妙な、絵かきだか何だか妙な判《はん》じもののような者や、ポンチ画の広告見たような者や、長いマントを着て尖《とが》ったような帽子を被《かぶ》った和蘭《オランダ》の植民地にいるような者や、一種特別な人間ばかりが行っている。絵もそういう風な調子である。見物人も綺麗な人は一人もいない。どうもその絵はそれで或程度まではチャンと整《ととの》うてはいないと思います。しかし、自分が自分の絵を描いている、という感じは確かにしました。しかしその色の汚い方の絵は未成品《みせいひん》だと思います。それだから同情もありそれを描いた人に敬意も持ちますけれども、わざわざ金を出して内に買って来て書斎に掛けようと思わない絵ばかりでありました。
 こういう風に色々違う絵があるからして、その点から出立《しゅったつ》して御話をしましょう。――それで文展の画家や西洋から帰って来た二人は自分で自分の絵を描かない。それから今の日本の方のは自分で自分の絵は描くけれども未成品である。感想はそれだけですがね。それについてそれをフィロソフィーにしよう――それをまあこじつけてフィロソフィーにして演説の体裁《ていさい》にしようというのです。どういう風にこじつけるかが問題であります。それが旨《うま》く行けば聴かれそうな演説である。巧《うま》く行かなければそれだけの話である。まあどういう風に片付けるかという御手際の善悪などはどうでも宜《よ》いのですから。
 人間という者は大変大きなものである。私なら私一人がこう立った時に、貴方がたはどう思います。どう思うといった所で漠然たるものでありますが、どう思いますか。偉い人と速水君は思うか知らんが、そんな意味じゃない。私は往来を歩いている一人の人を捉《つか》まえてこう観察する。この人は人間の代表者である。こう思います。そうでしょう神様の代表者じゃない、人間の代表者に間違いはない。禽獣《きんじゅう》の代表者じゃない、人間の代表者に違いない。従って私が茲処《ここ》にこう立っていると、私はこれでヒューマン・レースをレプレゼントして立っているのである。私が一人で沢山ある人間を代表していると、それは不可《いか》ん君は猫だと意地悪くいうものがあるかも知れぬ。もし貴方がたがこういったら、そうしたら、いや猫じゃない、私はヒューマン・レースを代表しているのであると、こう断言するつもりである。異存はないでしょう。それならば、それで宜《よろ》しい。
 同時にそれだけかというとそうでもない。じゃ何を代表しているかというと、その一人の人は人間全体を代表していると同時にその人一人を代表している。詰らない話だがそうである。私はこうやって人間全体の代表者として立っていると同時に自分自身を代表して立っている。貴方がたでもなければ彼方《かなた》がたでもない、私は一個の夏目漱石というものを代表している。この時私はゼネラルなものじゃない、スペシァルなものである。私は私を代表している、私以外の者は一人も代表しておらない。親も代表しておらなければ、子も代表しておらない、夫子《ふうし》自身を代表している。否《いな》夫子自身である。
 そうすると、人間というものはそういう風に二通りを代表している――というと語弊《ごへい》があるかも知れませんが――二通りになるでしょう。其処《そこ》です其処です、それをいわないと能《よ》く解らない。
 それでこのヒューマン・レースの代表者という方から考えて、人間という者はどんな特色、どんな性質を持っているか。第一私は人間全体を代表するその人間の特色として、第一に模倣ということを挙げたい。人は人の真似をするものである。私も人の真似をしてこれまで大きくなった。私の所の小さい子供なども非常に人の真似をする。一歳違いの男の兄弟があるが、兄貴が何か呉《く》れろといえば弟も何か呉れろという。兄が要《い》らないといえば弟も要らないという。兄が小便《しょうべん》がしたいといえば弟も小便をしたいという。それは実にひどいものです。総《すべ》て兄のいう通りをする。丁度その後から一歩一歩ついて歩いているようである。恐るべく驚くべく彼は模倣者である。
 近頃読んだ本でありませんがマンテガッツァの『フィジオロジー・エンド・エキスプレション』という本の中にイミテーションということについて例を沢山挙げてありましたが、私は今|一々《いちいち》人間という者は真似をするものであるという
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