山ありましょう。それが紳士だと思ってはいけません。けれどもそういう者が紳士として通用している。つまり人格から出た品位を保っている本統《ほんとう》の紳士もありましょうが、人格というものを度外《どがい》に置いて、ただマナーだけを以て紳士だとして立派に通用している人の方が多いでしょう。まあ八割位はそうだろうと思います。それで文展の絵を見てどっちの方の紳士が多いかというと、人格の乏しい絵だ。人格の乏しい絵だといって、何も泥棒が絵描になっているというような訳ではない。そういう侮辱の意味じゃない。けれども尊敬した意味じゃ無論ない。大変どうも頭が――何といって宜《よ》いか――気高《けだか》いというものがない。御覧になっても分る。気高いということは富士山や御釈迦様《おしゃかさま》や仙人などを描いて、それで気高いという訳じゃない。仮令《たとい》馬を描いても気高い。猫をかいたら――なお気高い。草木禽獣《そうもくきんじゅう》、どんな小さな物を描いても、どんなインシグニフィカントな物を描いても、気高いものはいくらもあります。そういうような意味の絵にはどうも欠乏し切っているのが文展である。これを逆にいうと、そう
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