いう代りにインデペンデントという事が重きを為《な》さなければならぬ。人がするから自分もするのではない。人がそうすれば――他人《ひと》は朝飯に粥《かゆ》を食う俺はパンを食う。他人は蕎麦《そば》を食う俺は雑※[#「者/火」、第3水準1−87−52]《ぞうに》を食う、われわれは自分勝手に遣《や》ろう御前《おまえ》は三|杯《ばい》食う俺は五杯食う、というようなそういう事はイミテーションではない。他人が四杯食えば俺は六杯食う。それはイミテーションでないか知らぬが、事によると故意《こい》に反対することもある。これは不可《いけ》ない。世の中には奇人《きじん》というものがありまして、どうも人並の事をしちゃあ面白くないから、何でも人とは反対をしなければ気が済まない。中には広告するためにやる奴もある。普通のことでは面白くないから、何か特別な事をして見たいというので、髪の毛を伸ばして見たり、冬|夏帽《なつぼう》を被《かぶ》って見たり――それは此処《ここ》の生徒などにもよくある。が、あれは無頓着《むとんじゃく》から来るのでしょう。人が冬帽を被《かぶ》っているという事に気が付けば自分も被りたくなるでしょう。故意に俺は夏帽を被るといった日にはよほど奇人《きじん》となる。私のここにインデペンデントというのは、この故意を取り除《の》ける。次には奇人を取り除ける。気が付かないのも勘定《かんじょう》の中に這入らない。それじゃあどういうのがインデペンデントであるか。人間は自然天然に独立の傾向を有《も》っている。人間は一方でイミテーション、一方で独立自尊、というような傾向を有っている。その内で区別して見れば、横着《おうちゃく》な奴と、横着でない奴と、横着でないけれども分らないから横着をやって、まあ朝八時に起きる所を自然天然の傾向で十時頃まで寐ている。それはインデペンデントには違いないが、甚《はなは》だどうも結構でない事かも知れません。それは我儘、横着であるが自然でもある、インデペンデントともなるけれども、これも取り除《のぞ》けということになる。最後に残るのは――貴方がたの中で能《よ》く誘惑ということを言いましょう。人と歩調《ほちょう》を合わして行きたいという誘惑を感じても、如何《いかん》せんどうも私にはその誘惑に従う訳に行かぬ。丁度《ちょうど》跛を兵式体操《へいしきたいそう》に引き出したようなもので、如何
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