せんどうも歩調が揃《そろ》わぬ。それは、諸君と行動を共にしたいけれども、どうもそう行かないので仕方がない。こういうのをインデペンデントというのです。勿論それは体質上のそういう一種のデマンドじゃない、精神的の――ポジチブな内心のデマンドである。あるいはこれが道徳上に発現して来る場合もありましょう。あるいは芸術上に発現して来る場合もありましょう。精神的になって来ると――そうですね、古臭《ふるくさ》い例を引くようでありますが、坊さんというものは肉食妻帯《にくじきさいたい》をしない主義であります。それを真宗《しんしゅう》の方では、ずっと昔から肉を食った、女房を持っている。これはまあ思想上の大革命でしょう。親鸞上人《しんらんしょうにん》に初めから非常な思想があり、非常な力があり、非常な強い根柢《こんてい》のある思想を持たなければ、あれほどの大改革は出来ない。言葉を換えて言えば親鸞は非常なインデペンデントの人といわなければならぬ。あれだけのことをするには初めからチャンとした、シッカリした根柢がある。そうして自分の執るべき道はそうでなければならぬ、外《ほか》の坊主と歩調を共にしたいけれども、如何《いかん》せん独り身の僕は唯女房を持ちたい肉食をしたいという、そんな意味ではない。その時分に、今でもそうだけれども、思い切って妻帯し肉食をするということを公言するのみならず、断行して御覧なさい。どの位迫害を受けるか分らない。尤《もっと》も迫害などを恐れるようではそんな事は出来ないでしょう。そんな小さい事を心配するようでは、こんな事は仕切《しき》れないでしょう。其所《そこ》にその人の自信なり、確乎《かくこ》たる精神なりがある。その人を支配する権威があって初めてああいうことが出来るのである。だから親鸞上人は、一方じゃ人間全体の代表者かも知らんが、一方では著《いちじる》しき自己の代表者である。
 今は古い例を挙げたが、今度はもっと新しい例を挙げれば、イブセンという人がある。イブセンの道徳主義は御承知の通り、昔の道徳というものはどうも駄目だという。何が駄目かといえば、あれは男に都合の宜《よ》いように出来たものである。女というものは眼中《がんちゅう》に置かないで、強い男が自分の権利を振り廻すために自分の便利を計るために、一種の制裁なり法則というものを拵えて、弱い女を無視してそれを鉄窓《てっそう》の中
前へ 次へ
全24ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング