いう絵を排斥しているのが文展である。こういう訳であるから、それが一列一帯にチャンと御手際だけは出来ておらないといけない。御手際が出来てない物は皆落第する――のですかどうか分らないが、とにかくそういうことを私は文展において認め、かつその文展における絵の特色と人間の特色と相対していわゆるゼントルマンに比較して考えたのであります。
 それからその次に或《ある》人が外国から帰って展覧会を開いた、それを見に往きました。二人でありました。その一人の絵を見ると、油絵で西洋の色々な絵を描いている。アンプレッショニストのような絵も描いている。クラシカルな、ルーベンスなどに非常に能《よ》く似たような絵も描いている。仏蘭西《フランス》派であるが、あれを公平に考えて見ると、彼《あ》の人は何処《どこ》に特色があるだろう。他人《ひと》の絵を描いている。自分というものが何処にもないようですね。巧《うま》い拙《まず》いにかかわらず、他人の描いたようなものはいくらでも描くんですが、それじゃ自分は何所《どこ》にあるかというと、チョッと何所にあるか見えないような絵を展覧会で見せられました。その次にもう一つの外国から帰った人の絵を見た。それは品《ひん》の宜《よ》い、大人《おとな》しい絵でした。それで誰が見ても、まあ悪感情を催さない絵でありました。私はその中の一つを買って来て家の書斎に掛けようかと思いました。が、止《よ》しました。けれども、まあ買っても宜いとは思いました。何故買っても宜いといいますと、相当に出来ているからです。内へ持って来て掛けるのは何故かというと、英吉利風《イギリスふう》の絵なら絵を、相当に描きこなしておって、部屋の装飾として突飛《とっぴ》でない、丁度平凡でチョッと好《よ》かろうと思ったから買って来ようかと思ったけれども、買って来ませんでした。その人の絵は誰が見ても習った絵だということが分る。習って或《ある》程度まで進んだ絵である。それだから見苦しくない、ということは分る。その代りその作者を俟《ま》って初めて描けるような絵は一つもないのです。例えばその内の一《ひとつ》を選んで内に掛けるにしても、その特別なる画家を煩《わずら》わさないでも、外《ほか》の人に頼んでも、それと同じような絵が出来そうな絵でありました。それから私はもう一つ見ました。これは日本にいる人で、日本にいる人の或《ある》外国の
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