している人間で、手を出して握手をしたりする。下層社会の女などがよくあの人は様子《ようす》が宜《い》いということをいうが、様子が宜い位で女に惚れられるのは、男子の不面目《ふめんぼく》だと思います。様子が宜いというのは、人を外《そ》らさないということになる。唯|御座《おざ》なりを言うということになる。余りブッキラボーでない、当《あた》り触《さわ》りが宜いというので御座います。鮮《あざや》かで穏かで寔《まこと》に宜い。それは悪い事とは思いません。そういう人に接している方が野蛮人に接しているよりは宜い。一口感情を害しても直《す》ぐに擲《なぐ》られるというような人より宜い。それを攻撃する訳じゃありませんが、しかしそれだけでは人格問題じゃない。人格問題じゃないというのは――随分悪い事をして、人の金をただ取るとか、法律に触れるような事をしないまでも非道《ひど》いずるい事をしたり、種々雑多な事をやって、立派な家に這入って、自動車なんぞに乗って、そうして会って見ると寔《まこと》に調子が好くて、品《ひん》が好くて、ノッペリしている。そうして人格というものはどうかというと、余り感服《かんぷく》出来ない人が沢山ありましょう。それが紳士だと思ってはいけません。けれどもそういう者が紳士として通用している。つまり人格から出た品位を保っている本統《ほんとう》の紳士もありましょうが、人格というものを度外《どがい》に置いて、ただマナーだけを以て紳士だとして立派に通用している人の方が多いでしょう。まあ八割位はそうだろうと思います。それで文展の絵を見てどっちの方の紳士が多いかというと、人格の乏しい絵だ。人格の乏しい絵だといって、何も泥棒が絵描になっているというような訳ではない。そういう侮辱の意味じゃない。けれども尊敬した意味じゃ無論ない。大変どうも頭が――何といって宜《よ》いか――気高《けだか》いというものがない。御覧になっても分る。気高いということは富士山や御釈迦様《おしゃかさま》や仙人などを描いて、それで気高いという訳じゃない。仮令《たとい》馬を描いても気高い。猫をかいたら――なお気高い。草木禽獣《そうもくきんじゅう》、どんな小さな物を描いても、どんなインシグニフィカントな物を描いても、気高いものはいくらもあります。そういうような意味の絵にはどうも欠乏し切っているのが文展である。これを逆にいうと、そう
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