絵でありました。前の二つは帝国ホテル及び精養軒《せいようけん》という立派な料理屋で見ました。御客様もどうも華やかな人が多い。中には振袖《ふりそで》を着ている女などがおりました、あんな女などに解るのかと思うほどでした。第三に見たのは、これはどうも反対ですね。所は読売新聞の三階でした。見物人はわれわれ位の紳士だけれども、何だか妙な、絵かきだか何だか妙な判《はん》じもののような者や、ポンチ画の広告見たような者や、長いマントを着て尖《とが》ったような帽子を被《かぶ》った和蘭《オランダ》の植民地にいるような者や、一種特別な人間ばかりが行っている。絵もそういう風な調子である。見物人も綺麗な人は一人もいない。どうもその絵はそれで或程度まではチャンと整《ととの》うてはいないと思います。しかし、自分が自分の絵を描いている、という感じは確かにしました。しかしその色の汚い方の絵は未成品《みせいひん》だと思います。それだから同情もありそれを描いた人に敬意も持ちますけれども、わざわざ金を出して内に買って来て書斎に掛けようと思わない絵ばかりでありました。
こういう風に色々違う絵があるからして、その点から出立《しゅったつ》して御話をしましょう。――それで文展の画家や西洋から帰って来た二人は自分で自分の絵を描かない。それから今の日本の方のは自分で自分の絵は描くけれども未成品である。感想はそれだけですがね。それについてそれをフィロソフィーにしよう――それをまあこじつけてフィロソフィーにして演説の体裁《ていさい》にしようというのです。どういう風にこじつけるかが問題であります。それが旨《うま》く行けば聴かれそうな演説である。巧《うま》く行かなければそれだけの話である。まあどういう風に片付けるかという御手際の善悪などはどうでも宜《よ》いのですから。
人間という者は大変大きなものである。私なら私一人がこう立った時に、貴方がたはどう思います。どう思うといった所で漠然たるものでありますが、どう思いますか。偉い人と速水君は思うか知らんが、そんな意味じゃない。私は往来を歩いている一人の人を捉《つか》まえてこう観察する。この人は人間の代表者である。こう思います。そうでしょう神様の代表者じゃない、人間の代表者に間違いはない。禽獣《きんじゅう》の代表者じゃない、人間の代表者に違いない。従って私が茲処《ここ》にこう立っ
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