の位置態度も大変よかった。そうして御俊も伝兵衛も綺麗《きれい》であった。ただ与次郎なるものが少々やりすぎる。今一歩うち場に控えればあんな厭味《いやみ》は出ないはずである。
○しまいの踊は綺麗で愉快だった。見ていて人情も頭脳もいらない。ただ芸術的に眼を喜ばせる単純なものであるから、そこが自分にはすこぶる結構であった。
○最後に一言するが、自分は午後の一時から、夜の十一時まで明治座の中で暮した。時間から云うと大変なものである。これは日本の芝居が安過ぎるか、または見物が慾張り過ぎる証拠《しょうこ》である。実を云うと自分はもっと早くすむ方が便利であった。ただ、まだあるものを途中で出るのはもったいないから、消極的に慾張ってしまいまでいたのである。自分と同感の人も大分あるだろうと思う。しかし見物が積極的に、この長時間に比例するほど慾張るが故、役者もやむをえず働らくとすれば役者ははなはだ気の毒である。同盟してもっと見物賃を上げるが好い。牛肉でも葱《ねぎ》でも外の諸式はもっとぐっと高くなりつつある。



底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
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