見たいな贅沢《ぜいたく》やから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」
 津田は叔母の手前重ねて悪口《わるくち》を云う勇気もなかった。黙って茶碗《ちゃわん》を借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作《しょさ》を眺めた。
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」

 今日《こんにち》まで病気という病気をした例《ためし》のない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。あらゆる疾病《しっぺい》とほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。
「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」
 叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、胡麻塩《ごましお》だらけの髯《ひげ》を撫《な》でた。生やしていると云うよりもむしろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころ爺々《じじ》むさく見せた。
「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」
 叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父から惑病《わくびょう》は同源《どうげん》だの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事を憶《おも》い出すと、それが病気に罹《かか》らない自分の自慢とも受け取れるので、なおのこと滑稽《こっけい》に感ぜられた。彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を云った。
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に私《わたくし》なんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃ罹《かか》らないもんだろうと思います」
 津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」
「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」
 この不論理《ふろんり》な断案は、云い手が真面目《まじめ》なだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」
 薄暗くなった室《へや》の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチを捩《ねじ》った。

        二十九

 いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢《さらこばち》の音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」
 津田は明日《あした》の治療を控えているので断って帰ろうとした。
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走《ごちそう》が足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」
 叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、また尻《しり》を据《す》えた。
「今日は何事かあるんですか」
「何ね、小林が今度――」
 叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」
「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の宅《うち》へ行って詳《くわ》しい話をするがね」
「しかし僕は明日《あした》から入院するんだぜ」
「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」
 小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊《き》いた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへ通《かよ》ったのを小林はよく知っていたのである。
 彼の詳《くわ》しい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。それは先刻《さっき》叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心を唆《そそ》られた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。
 津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母の拵《こしら》えてくれた肉にも肴《さかな》にも、日頃大好な茸飯《たけめし》にも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできる麺麭《パン》と牛乳を買って来させようとした。ねとねとしてむやみに歯の間に挟《はさ》まるここいらの麺麭に内心|辟易《へきえき》しながら、また贅沢《ぜいたく》だと云われるのが少し怖《こわ》いので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんの後姿《うしろすがた》を見送った。
 お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの子《こ》も今度《こんだ》の縁が纏《まと》まるようになると仕合せですがね」
「纏まるだろうよ」
 叔父は苦《く》のなさそうな返事をした。
「至極《しごく》よさそうに思います」
 小林の挨拶《あいさつ》も気軽かった。黙っているのは津田と真事《まこと》だけであった。
 相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の家《うち》で会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。
「お金さんはその人を知ってるんですか」
「顔は知ってるよ。口は利《き》いた事がないけれども」
「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」
「当り前さ」
「それでよく結婚が成立するもんだな」
 津田はこういって然《しか》るべき理窟《りくつ》が充分自分の方にあると考えた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」
 叔父は少し機嫌《きげん》を損じたらしい語気で津田の方を向いた。津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。
「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」

        三十

 それでも座は白《しら》けてしまった。今まで心持よく流れていた談話が、急に堰《せ》き止められたように、誰も津田の言葉を受《う》け継《つ》いで、順々に後《あと》へ送ってくれるものがなくなった。
 小林は自分の前にある麦酒《ビール》の洋盃《コップ》を指《さ》して、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事に訊《き》いた。
「真事《まこと》さん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」
「苦《にが》いから僕|厭《いや》だよ」
 真事はすぐ跳《は》ねつけた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それを機《しお》にははと笑った。好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に云った。
「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」
 すぐ立って奥の四畳半へ馳《か》け込んだ彼が、そこから新らしい玩具《おもちゃ》を茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。叔父も叔母も嬉《うれ》しがっているわが子のために、一言《いちごん》の愛嬌《あいきょう》を義務的に添える必要があった。
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な阿爺《おやじ》を責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうか諦《あき》らめたようだから、まだ始末が好い」
「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に入《い》ります」
「見て来たような事を云うな」
 空気銃の御蔭《おかげ》で、みんながまた満遍《まんべん》なく口を利《き》くようになった。結婚が再び彼らの話頭に上《のぼ》った。それは途切《とぎ》れた前の続きに相違なかった。けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前と異《ちが》った気分によって、彼らの表現を支配されていた。
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁《ふえん》になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終《すえしじゅう》和合するとは限らないんだから」
 叔母の見て来た世の中を正直に纏《まと》めるとこうなるよりほかに仕方なかった。この大きな事実の一隅《いちぐう》にお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目《まじめ》さを欠いているとしか彼には思えなかった。
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢《ぜいたく》な事を、我々|風情《ふぜい》が云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」
 津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、不真面目《ふまじめ》という疑念を塗り潰《つぶ》すために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。彼は首を捻《ひね》って考え込む様子をしながら云った。
「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう容易《たやす》く考えて構わないものか知ら。僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」
「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出て来《き》ようはずがないじゃないか。由雄さん」
「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」
「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」
「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」
「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」
「そう云った日にゃまるで議論にならない」
「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろ選《え》り好《ごの》みをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」
 先刻《さっき》から肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。

        三十一

「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、叔母《おば》甥《おい》の対話とは思えないよ」
 二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はその実《じつ》行司でも審判官でもなかった。
「何だか双方|敵愾心《てきがいしん》をもって云い合ってるようだが、喧嘩《けんか》でもしたのかい」
 彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。真事《まこと》を相手にビー珠《だま》を転がしていた小林が偸《ぬす》むようにしてこっちを見た。叔母も津田も一度に黙ってしまった。叔父はついに調停者の態度で口を開かなければならなくなった。
「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来|悪《にく》いかも知れないがね、叔母さんは嘘《うそ》を吐《つ》いてるんじゃないよ。知りもしないおれの所へ来るとき、もうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。叔母さんは本当に来ない前から来た後《あと》と同じように真面目だったのさ」
「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」
「ところがさ、その叔母
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