さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」
 そろそろ酔の廻った叔父は、火熱《ほて》った顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、また洋盃《コップ》を取り上げて麦酒《ビール》をぐいと飲んだ。
「実を云うとその訳を今日《きょう》までまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」
「ええ」
 津田も半分は真面目であった。
「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれに意《い》があったんだ。つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。――」
「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような醜男《ぶおとこ》に意《い》なんぞあるもんですか」
 津田も小林も吹き出した。独《ひと》りきょとんとした真事は叔母の方を向いた。
「お母さん意があるって何」
「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」
「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」
 叔父はにやにやしながら、禿《は》げた頭の真中を大事そうに撫《な》で廻した。気のせいかその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。
「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」
「ふん。じゃ好いじゃないか」
「だから誰も悪いと云ってやしない」
「だって皆《みん》な笑うじゃないか」
 この問答の途中へお金《きん》さんがちょうど帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼を寝間《ねま》の方へ追いやった。興に乗った叔父の話はますます発展するばかりであった。
「そりゃ昔《むか》しだって恋愛事件はあったよ。いくらお朝《あさ》が怖《こわ》い顔をしたってあったに違ないが、だね。そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから、妙だろう。昔は女の方で男に惚《ほ》れたけれども、男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。――ねえお朝そうだったろう」
「どうだか存じませんよ」
 叔母は真事の立った後《あと》へ坐って、さっさと松茸飯《まつだけめし》を手盛《てもり》にして食べ始めた。
「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」
「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」
「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達は他《ひと》の娘を何だと思う」
「女だと思ってます」
 津田は交《ま》ぜ返《かえ》し半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は父母《ふぼ》から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。だからいくら惚《ほ》れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。なぜと云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。しかしおれの方じゃかつて彼女《あれ》を愛した覚《おぼえ》がない」
「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」
 真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり下味《まず》い食麺麭《しょくパン》をにちゃにちゃ噛《か》んだ。

        三十二

 食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に纏《まと》めようと努力するもののないのに気が付いた。
 餉台《ちゃぶだい》の上に両肱《りょうひじ》を突いた叔父が酔後《すいご》の欠《あくび》を続けざまに二つした。叔母が下女を呼んで残物《ざんぶつ》を勝手へ運ばした。先刻《さっき》から重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面《おもて》を過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麦酒《ビール》の泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。
 同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は始終《しじゅう》自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快も潜《ひそ》んでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。
 半日以上の暇を潰《つぶ》したこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌《かっぱつ》な吉川夫人とその綺麗《きれい》な応接間とを記憶の舞台に躍《おど》らした。つづいて近頃ようやく丸髷《まるまげ》に結い出したお延《のぶ》の顔が眼の前に動いた。
 彼は座を立とうとして小林を顧《かえり》みた。
「君はまだいるかね」
「いや。僕ももう御暇《おいとま》しよう」
 小林はすぐ吸い残した敷島《しきしま》の袋を洋袴《ズボン》の隠袋《かくし》へねじ込んだ。すると彼らの立《た》ち際《ぎわ》に、叔父が偶然らしくまた口を開いた。
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰《ごぶさた》をしている。宜《よろ》しく云ってくれ。お前の留守にゃ閑《ひま》で困るだろうね、彼《あ》の女《おんな》も。いったい何をして暮してるかね」
「何って別にする事もないでしょうよ」
 こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に後《あと》からつけ足した。
「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」
「感心じゃないか。お前のようなお洒落《しゃれ》にそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」
「ありがたい仕合せだな」
「芝居《しばや》はどうだい。近頃行くかい」
「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」
 津田はそこでちょっと叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」
「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」
「お厭ですか」
「厭より、いつの事だか分らないからね」
 芝居場《しばいば》などを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻《か》いて見せた。
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」
 叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」
「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」
 津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。
「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」
 叔父は笑うだけであった。
「兄貴《あにき》は怒ってるんだろう」
「いったいお秀《ひで》がまた余計な事を云ってやるからいけない」
 津田は少し忌々《いまいま》しそうに妹の名前を口にした。
「お秀に咎《とが》はありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」
「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた阿爺《おやじ》から送って貰った金を、きちんきちん返す奴《やつ》があるもんですか」
「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」
「もう解りましたよ、叔母さん」
 津田はとても敵《かな》わないという心持をその様子に見せて立ち上がった。しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、促《うな》がすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。

        三十三

 戸外《そと》には風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人の頬《ほお》に冷たく触れた。星の高く輝やく空から、眼に見えない透明な露《つゆ》がしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分で外套《がいとう》の肩を撫《な》でた。その外套の裏側に滲《し》み込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林を顧《かえり》みた。
「日中《にっちゅう》は暖《あった》かだが、夜になるとやっぱり寒いね」
「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」
 小林は新調の三《み》つ揃《ぞろい》の上に何にも着ていなかった。ことさらに爪先《つまさき》を厚く四角に拵《こしら》えたいかつい亜米利加型《アメリカがた》の靴をごとごと鳴らして、太い洋杖《ステッキ》をわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者に異《こと》ならなかった。
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」
 彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」
「まだ着ているのか」
「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」
「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」
「欲しければやっても好い」
 津田はむしろ冷やかに答えた。靴足袋《くつたび》まで新らしくしている男が、他《ひと》の着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活に横《よこた》わる、不規則な物質的の凸凹《たかびく》を証拠《しょうこ》立てていた。しばらくしてから、津田は小林に訊《き》いた。
「なぜその背広《せびろ》といっしょに外套も拵えなかったんだ」
「君と同《おん》なじように僕を考えちゃ困るよ」
「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」
「訊き方が少し手酷《てきび》し過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」
 津田はすぐ口を閉じた。
 二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔《へだ》てて向《むこう》に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみを滴《したた》らした。
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」
 津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺《うかが》った。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝《こんもり》した竹藪《たけやぶ》が一面に生《お》い被《かぶ》さっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹《ささ》の葉の梢《こずえ》は、季節相応な蕭索《しょうさく》の感じを津田に与えるに充分であった。
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして放《ほう》ってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」
 津田はこういって当面の挨拶《あいさつ》をごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいて止《や》めないと身体《からだ》に障《さわ》るからね」
 自分に都合の好い理窟《りくつ
前へ 次へ
全75ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング