》を勝手に拵《こし》らえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑な伴侶《つれ》であった。彼は冷かし半分に訊《き》いた。
「君が奢《おご》るのか」
「うん奢っても好い」
「そうしてどこへ行くつもりなんだ」
「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」
 二人は黙って坂の下まで降りた。

        三十四

 順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は真直《まっすぐ》に行かなければならなかった。しかし体《てい》よく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林は覗《のぞ》き込むように見て云った。
「僕もそっちへ行くよ」
 彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある酒場《バー》めいた店の硝子戸《ガラスど》が、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。
「ここが好い。ここへ入ろう」
「僕は厭だよ」
「君の気に入りそうな上等の宅《うち》はここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」
「僕は病気だよ」
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」
「冗談《じょうだん》云うな。厭《いや》だよ」
「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」
 面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調《くちょう》で追究《ついきゅう》した。
「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」
 実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外部《そと》へ現わした。
「じゃ飲もう」
 二人はすぐ明るい硝子戸《ガラスど》を引いて中へ入った。客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。割合楽に席の取れそうな片隅《かたすみ》を択《えら》んで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲《あたり》へ向けた。
 服装から見た彼らの相客中《あいきゃくちゅう》に、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。湯帰りと見えて、縞《しま》の半纏《はんてん》の肩へ濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》を掛けたのだの、木綿物《もめんもの》に角帯《かくおび》を締《し》めて、わざとらしく平打《ひらうち》の羽織の紐《ひも》の真中へ擬物《まがいもの》の翡翠《ひすい》を通したのだのはむしろ上等の部であった。ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。腹掛《はらがけ》股引《ももひき》も一人|交《まじ》っていた。
「どうだ平民的でいいじゃないか」
 小林は津田の猪口《ちょく》へ酒を注《つ》ぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したての派出《はで》な彼の背広《せびろ》が、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」
 小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも揃《そろ》っているような顔をして、一同を見廻した。
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」
 挨拶《あいさつ》をする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。
「少くとも陶然《とうぜん》としているだろう」
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然としかたが違うよ」
 津田は昂然《こうぜん》として両者の差違を訊《き》かなかった。それでも小林は少しも悄気《しょげ》ずに、ぐいぐい杯《さかずき》を重ねた。
「君はこういう人間を軽蔑《けいべつ》しているね。同情に価《あたい》しないものとして、始めから見くびっているんだ」
 こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」
 出し抜けに呼びかけられた若者は倔強《くっきょう》な頸筋《くびすじ》を曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐ杯《さかずき》をそっちの方へ出した。
「まあ君一杯飲みたまえ」
 若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」

        三十五

 インヴァネスを着た小作りな男が、半纏《はんてん》の角刈《かくがり》と入れ違に這入《はい》って来て、二人から少し隔《へだた》った所に席を取った。廂《ひさし》を深くおろした鳥打《とりうち》を被《かぶ》ったまま、彼は一応ぐるりと四方《あたり》を見廻した後《あと》で、懐《ふところ》へ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまで経《た》っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりと他《ほか》の客を、見ないようにして見始めた。その相間《あいま》相間には、ちんちくりんな外套《がいとう》の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭《ひげ》を撫《な》でた。
 先刻《さっき》から気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向《まむき》になって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。
「何だか知ってるか」
 津田は元の通りの姿勢を崩《くず》さなかった。ほとんど返事に価《あたい》しないという口調で答えた。
「何だか知るもんか」
 小林はなお声を低くした。
「あいつは探偵《たんてい》だぜ」
 津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口《ちょく》を干した。小林はすぐそれへなみなみと注《つ》いだ。
「あの眼つきを見ろ」
 薄笑いをした津田はようやく口を開《ひら》いた。
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り繕《つく》ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られて然《しか》るべきだかよく考えて見ろ」
 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」
 小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地《きじ》をうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦という塵埃《ほこり》で汚《よご》れているだけなんだ。つまり湯に入れないから穢《きた》ないんだ。馬鹿にするな」
 小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家《じか》の弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面を傷《きずつ》けられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなお追《おっ》かけて来た。
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜《ロシア》の小説を読んだろう」
 露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤《げせん》であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕《つくろ》わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」
「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」
「先生に訊《き》くと、先生はありゃ嘘《うそ》だと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣な器《うつわ》に盛って、感傷的に読者を刺戟《しげき》する策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢《とし》を取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」
 小林の言葉はだんだん逼《せま》って来た。しまいに彼は感慨に堪《た》えんという顔をして、涙をぽたぽた卓布《テーブルクロース》の上に落した。

        三十六

 不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の埒外《らちがい》からこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落された涙の痕《あと》を、ただ迷惑そうに眺めた。
 探偵《たんてい》として物色《ぶっしょく》された男は、懐《ふところ》からまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調の背広《せびろ》の腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。
「君は僕が汚ない服装《なり》をすると、汚ないと云って軽蔑《けいべつ》するだろう。またたまに綺麗《きれい》な着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生《ごしょう》だから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵《こしら》えたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」
「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸《はだか》で往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」
「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お洒落《しゃれ》だと解釈している。それが悪い」
「そうか。そりゃ悪かった」
 もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気《しゃれけ》はあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」
 そんな特別の理由を津田は固《もと》より知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。けれども行きがかり上|訊《き》いてやらない訳にも行かなかった。両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装《なり》を見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。
「実はこの着物で近々《きんきん》都落《みやこ
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