おち》をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」
 津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでに先刻《さっき》から苦になっていた襟飾《えりかざり》の横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。
 長い間叔父の雑誌の編輯《へんしゅう》をしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、始終《しじゅう》忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛防《しんぼう》していたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際|厭《いや》だよ」
 その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口も利《き》いた。
「要するに僕なんぞは、生涯《しょうがい》漂浪《ひょうろう》して歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。駈落者《かけおちもの》になるよりほかに仕方がないじゃないか」
「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」
「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは贅沢《ぜいたく》だからさ。僕のは死ぬまで麺麭《パン》を追《おっ》かけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」
「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」
 小林は津田の言葉から何らの慰藉《いしゃ》を受ける気色《けしき》もなかった。

        三十七

 先刻《さっき》から二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓《テーブル》の上を片づけ始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。疾《と》うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会を捉《とら》えてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。そうしてその中からまた新らしい金口《きんぐち》を一本出してそれに火を点《つ》けた。行きがけの駄賃《だちん》らしいこの所作《しょさ》が、煙草《たばこ》の箱を受け取って袂《たもと》へ入れる津田の眼を、皮肉に擽《くす》ぐったくした。
 時刻はそれほどでなかったけれども、秋の夜《よ》の往来は意外に更《ふ》けやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河の縁《ふち》をつたって動いて行った。
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」
「ことによると君の病院へ入《は》いっているうちかも知れない」
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然《はっきり》した事は分らないんだ」
「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」
「うん、まあ――」
 彼の返事は少し曖昧《あいまい》であった。津田がそれを追究《ついきゅう》もしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃ止《よ》したらいいじゃないか」
 津田の言葉は誰にでも解り切った理窟《りくつ》なだけに、同情に飢《う》えていそうな相手の気分を残酷に射貫《いぬ》いたと一般であった。数歩の後《のち》、小林は突然津田の方を向いた。
「津田君、僕は淋《さむ》しいよ」
 津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い河床《かわどこ》の真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭《はしぐい》の下で黒く消えて行く時、幽《かす》かに音を立てて、電車の通る相間《あいま》相間に、ちょろちょろと鳴った。
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」
 彼の語気は癇走《かんばし》っていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯《とし》さえ若くって身体《からだ》さえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効《せいこう》できるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」
 今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねて跋《ばつ》を合せる態度に出た。
「君が行ったらお金《きん》さんの結婚する時困るだろう」
 小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、あいつも可哀相《かわいそう》だけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴《あにき》をもったのが不仕合せだと思って、諦《あき》らめて貰うんだ」
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」
「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の宅《うち》で使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」
「向うじゃくれないのか」
「くれそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
 一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた独《ひと》り言《ごと》のように云った。
「旅費は先生から借りる、外套《がいとう》は君から貰う、たった一人の妹は置《お》いてき堀《ぼり》にする、世話はないや」
 これがその晩小林の口から出た最後の台詞《せりふ》であった。二人はついに分れた。津田は後《あと》をも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。

        三十八

 彼の門は例《いつも》の通り締《し》まっていた。彼は潜《くぐ》り戸《ど》へ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまた開《あ》かなかった。立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しい※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》の抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。
 彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立《たたず》んだ。新らしい世帯を持ってから今日《こんにち》に至るまで、一度も外泊した覚《おぼえ》のない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。
 今日《きょう》の彼は灯点《ひとも》し頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、むしろお延《のぶ》の面影《おもかげ》を心におきながら外で暮していた。その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火《ともしび》を慕って、それを目標《めあて》に足を運んだのと一般であった。彼の身体《からだ》が土塀《どべい》に行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。
 彼は手を挙《あ》げて開《あ》かない潜《くぐ》り戸《ど》をとんとんと二つ敲《たた》いた。「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜ締《し》めた」といって詰問するような音が、更《ふ》け渡《わた》りつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声の主《ぬし》は、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸の此方側《こちらがわ》で耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチを捩《ひね》る音が明らかに聞こえた。格子《こうし》がすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだ閉《た》ててない事はたしかであった。
「どなた?」
 潜りのすぐ向う側まで来た足音が止《と》まると、お延はまずこう云って誰何《すいか》した。彼はなおの事|急《せ》き込んだ。
「早く開けろ、おれだ」
 お延は「あらッ」と叫んだ。
「あなただったの。御免遊《ごめんあそ》ばせ」
 ごとごと云わして※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》を外《はず》した後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少し蒼《あお》い顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。
 茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。鉄瓶《てつびん》が約束通り鳴っていた。長火鉢《ながひばち》の前には、例によって厚いメリンスの座蒲団《ざぶとん》が、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。お延の坐りつけたその向《むこう》には、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱《すずりばこ》が出してあった。青貝で梅の花を散らした螺鈿《らでん》の葢《ふた》は傍《わき》へ取《と》り除《の》けられて、梨地《なしじ》の中に篏《は》め込《こ》んだ小さな硯がつやつやと濡《ぬ》れていた。持主が急いで座を立った証拠《しょうこ》に、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨を滲《にじ》ませて、七八寸書きかけた手紙の末を汚《けが》していた。
 戸締《とじま》りをして夫の後《あと》から入ってきたお延は寝巻《ねまき》の上へ平生着《ふだんぎ》の羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。
「どうもすみません」
 津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」
「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまり淋《さむ》しくってたまらなくなったから、とうとう宅《うち》へ手紙を書き出したの」
 お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得《なっとく》ができなかった。
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒《ぶっそう》だからかね」
「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」
「だって現《げん》に締まっていたじゃないか」
「時《とき》が昨夕《ゆうべ》締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」
 こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女の眉《まゆ》を動かして見せた。日中用のない潜《くぐ》り戸《ど》の※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》を、朝|外《はず》し忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。
「時はどうしたい」
「もう先刻《さっき》寝かしてやったわ」
 下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、潜《くぐ》り戸《ど》の事をそのままにして寝た。

        三十九

 あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜《ゆうべ》寝るまで全く予想していなかった不意の観物《みもの》によって驚ろかされた。
 彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟《あでやか》に盛粧《せいそう》したお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起《ねおき》の顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩《も》らした。
「今|御眼覚《おめざめ》?」
 津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡《てがら》をかけた大丸髷《おおまるまげ》と、派出《はで》な刺繍《ぬい》をした半襟《はんえり》の模様と、それからその真中にある化粧後《けしょうご》の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」
 お延は平気なものであった。
「どうもし
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