ないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」
 昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の袴《はかま》も羽織も、畳んだなり、ちゃんと取り揃《そろ》えて、渋紙《しぶかみ》の上へ載《の》せてあった。
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」
「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
 津田はまた改めて細君の服装《なり》を吟味《ぎんみ》するように見た。
「あんまりおつくりが大袈裟《おおげさ》だからね」
 彼はすぐ心の中《うち》でこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者の一群《ひとむれ》とこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。
「だってあなた今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だって妾《あたし》……」
 津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装《なり》をして、あのお医者様へ夫婦お揃《そろ》いで乗り込むのは、少し――」
「辟易《へきえき》?」
 お延の漢語が突然津田を擽《くすぐ》った。彼は笑い出した。ちょっと眉《まゆ》を動かしたお延はすぐ甘垂《あまった》れるような口調を使った。
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍《かんにん》してちょうだいよ、ね」
 津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女に俥《くるま》を二台云いつけるお延の声を、あたかも自分が急《せ》き立《た》てられでもするように世話《せわ》しなく聞いた。

 普通の食事を取らない彼の朝飯《あさめし》はほとんど五分とかからなかった。楊枝《ようじ》も使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。
「病院へ持って行くものを纏《まと》めなくっちゃ」
 津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後《うしろ》にある戸棚《とだな》を開けた。
「ここに拵《こしら》えてあるからちょっと見てちょうだい」
 よそ行着《ゆきぎ》を着た細君を労《いたわ》らなければならなかった津田は、やや重い手提鞄《てさげかばん》と小さな風呂敷包《ふろしきづつみ》を、自分の手で戸棚《とだな》から引《ひ》き摺《ず》り出した。包の中には試しに袖《そで》を通したばかりの例の褞袍《どてら》と平絎《ひらぐけ》の寝巻紐《ねまきひも》が這入《はい》っているだけであったが、鞄《かばん》の中からは、楊枝だの歯磨粉《はみがき》だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙《しょかんようし》だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏《はさみ》だの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張《かさば》った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折《しおり》が挟《はさ》んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
 津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書《ドイツしょ》を重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
 こう云った津田は、それがこの大部《たいぶ》の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれが要《い》るんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのを択《よ》ってちょうだい」
 津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰《つ》め込んだ。

        四十

 天気が好いので幌《ほろ》を畳《たた》ました二人は、鞄《かばん》と風呂敷包を、各自《めいめい》の俥《くるま》の上に一つずつ乗せて家を出た。小路《こうじ》の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。
「大変。忘れものがあるの」
 車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入《ねんいり》に身仕舞《みじまい》をした若い女の口から出る刺戟性《しげきせい》に富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒《かじぼう》を握ったまま、等しくお延《のぶ》の方へ好奇の視線を向けた。傍《そば》を通る往来の人さえ一瞥《いちべつ》の注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。
「何だい。何を忘れたんだい」
 お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」
 彼女は自分の俥だけを元へ返した。中《ちゅう》ぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、劇《はげ》しい速力でまた彼の待っている所まで馳《か》けて来た。それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖《くさり》を出して長くぶら下げて見せた。その鎖の端《はじ》には環《わ》があって、環の中には大小五六個の鍵《かぎ》が通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作《しょさ》と共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。
「これ忘れたの。箪笥《たんす》の上に置きっ放しにしたまま」
 夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人|揃《そろ》って外出する時の用心に、大事なものに錠《じょう》を卸《おろ》しておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。
「お前預かっておいで」
 じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手《ひらて》でぽんとその上を敲《たた》きながら、津田を見て微笑した。
「大丈夫」
 俥は再び走《か》け出した。
 彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し後《おく》れていた。しかし午《ひる》までの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」
 薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作《ぞうさ》もなく笑いながら津田にお辞儀《じぎ》をしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀《くじゃく》はどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延が先《せん》を越して、「御厄介《ごやっかい》になります」とこっちから挨拶《あいさつ》をしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」
 津田は車夫から受取った鞄《かばん》を看護婦に渡して、二階の上《あが》り口《くち》の方へ廻った。
「お延こっちだ」
 控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を覗《のぞ》き込んでいたお延は、すぐ津田の後《あと》に随《つ》いて階子段《はしごだん》を上《あが》った。
「大変陰気な室《へや》ね、あすこは」
 南東《みなみひがし》の開《あ》いた二階は幸《さいわい》に明るかった。障子《しょうじ》を開けて縁側《えんがわ》へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干《ものほし》を見ながら、津田を顧《かえり》みた。
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は汚《よご》れているけれども」
 もと請負師《うけおいし》か何かの妾宅《しょうたく》に手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなく粋《いき》な昔の面影《おもかげ》が残っていた。
「古いけれども宅《うち》の二階よりましかも知れないね」
 日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少|燻《くす》ぶった天井《てんじょう》だの床柱《とこばしら》だのを見廻した。

        四十一

 そこへ先刻《さっき》の看護婦が急須《きゅうす》へ茶を淹《い》れて持って来た。
「今|仕度《したく》をしておりますから、少しの間どうぞ」
 二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」
「まるでお客さまに行ったようだろう」
「ええ」
 お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物《はもの》の音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」
「あたし怖《こわ》いわ、そんなものを見るのは」
 お延は実際怖そうに眉《まゆ》を動かした。
「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の傍《そば》まで来て、穢《きた》ないところを見る必要はないんだから」
「でもこんな場合には誰か身寄《みより》のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」
 津田は真面目《まじめ》なお延の顔を見て笑い出した。
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人《たちあいにん》なんか呼んで来る奴《やつ》があるものかね」
 津田は女に穢《きた》ないものを見せるのが嫌《きらい》な男であった。ことに自分の穢ないところを見せるは厭《いや》であった。もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。
「じゃ止《よ》しましょう」と云ったお延はまた時計を出した。
「お午《ひる》までに済むでしょうか」
「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって同《おん》なじこっちゃないか」
「そりゃそうだけど……」
 お延は後を云わなかった。津田も訊《き》かなかった。
 看護婦がまた階子段《はしごだん》の上へ顔を出した。
「支度《したく》ができましたからどうぞ」
 津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」
「どこかへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」
 同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気について妹《いもと》の事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山《ぎょうさん》過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」
 年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手《にがて》であった。
 お延は中腰《ちゅうごし》のまま答えた。
「でも後《あと》でまた何か云われると、あたしが困るわ」
 強《し》いてとめる理由も見出《みいだ》し得なかった津田は仕方なしに云った。
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
 お延は微《かす》かな声で階下《した》を憚《はば》かるような笑い方をした。しかし彼女の露《あら》わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽《こっけい》だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。
「じゃお秀さんへかけるのは止《よ》すから」
 こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」
「ええ岡本へかけるのよ。午《ひる》までにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」
 前後して階子段《はしごだん》を下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。

        四十二

「リチネはお飲みでしたろうね」
 医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊《き》いた。
「飲みましたが思ったほど効目《ききめ》がないようでした」
 昨日《きのう》の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤《げざい》から受けた影響は、ほとんど精神的
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