に零《ゼロ》であったのみならず、生理的にも案外微弱であった。
「じゃもう一度|浣腸《かんちょう》しましょう」
 浣腸の結果も充分でなかった。
 津田はそれなり手術台に上《のぼ》って仰向《あおむけ》に寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷《ひや》りとした。堅い括《くく》り枕《まくら》に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度も瞬《まばた》きをして、何度も天井《てんじょう》を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼を掠《かす》めて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらに偸《ぬす》み見たのだという心持がなおのこと募《つの》った。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。
「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」
 局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。
 局部魔睡《きょくぶますい》は都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。鈍《にぶ》い抵抗がそこに感ぜられた。
「どんなです。痛かないでしょう」
 医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」
 その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明のできないような」
「そうですか。我慢できますか」
 途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒《ぶどうしゅ》などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭《いや》であった。
「大丈夫です」
「そうですか。もう直《じき》です」
 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際《てぎわ》が閃《ひら》めいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。
 切物《きれもの》の皿に当って鳴る音が時々した。鋏《はさみ》で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇《いかく》した。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥《なまぐ》さそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むず痒《かゆ》い虫のようなものが、彼の身体《からだ》を不安にするために、気味悪く血管の中を這《は》い廻った。
 彼は大きな眼を開《あ》いて天井《てんじょう》を見た。その天井の上には綺麗《きれい》に着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。
「やっと済みました」
 むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後《あと》で、医者はまた云った。
「瘢痕《はんこん》が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」
 最後の注意と共に、津田はようやく手術台から下《お》ろされた。

        四十三

 診察室を出るとき、後《うしろ》から随《つ》いて来た看護婦が彼に訊《き》いた。
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」
「いいえ。――蒼《あお》い顔でもしているかね」
 自分自身に多少|懸念《けねん》のあった津田はこう云って訊《き》き返さなければならなかった。
 創口《きずぐち》にできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他《ひと》が想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段《はしごだん》を上《あが》る時には、割《さ》かれた肉とガーゼとが擦《こす》れ合《あ》ってざらざらするような心持がした。
 お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
 津田ははっきりした返事も与えずに室《へや》の中に這入《はい》った。そこには彼の予期通り、白いシーツに裹《つつ》まれた蒲団《ふとん》が、彼の安臥《あんが》を待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地《ねずみじ》のネルを重ねた銘仙《めいせん》の褞袍《どてら》を後《うしろ》から着せるつもりで、両手で襟《えり》の所を持ち上げたお延は、拍子抜《ひょうしぬ》けのした苦笑と共に、またそれを袖畳《そでだた》みにして床《とこ》の裾《すそ》の方に置いた。
「お薬はいただかなくっていいの」
 彼女は傍《そば》にいる看護婦の方を向いて訊《き》いた。
「別に内用のお薬は召し上らないでも差支《さしつか》えないのでございます。お食事の方はただいま拵《こしら》えてこちらから持って参ります」
 看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」
「そうね」
 お延は躊躇《ちゅうちょ》した。
「あたしどうしようかしら」
「だって、もう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」
 時計の葢《ふた》を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上で俎《まないた》へ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井《てんじょう》の上で、時計と睨《にら》めっ競《くら》でもするように、手術の時間を計っていたのである。
 津田は再び訊《き》いた。
「今から宅《うち》へ帰ったって仕方がないだろう」
「ええ」
「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」
「ええ」
 お延の返事はいつまで経《た》っても捗々《はかばか》しくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟《しげき》を避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼を開《あ》かなければならなかった。
「心持が悪いの?」
「いいや」
 念を押したお延はすぐ後《あと》を云った。
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に上《あが》りますからって」
「そうか」
 津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」
 気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作《しょさ》が一度に閃《ひら》めいた。病院へ随《つ》いて来るにしては派出過《はです》ぎる彼女の衣裳《いしょう》といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向って注《そそ》ぎ込《こ》まれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。津田は黙って横を向いた。床《とこ》の間《ま》の上に取り揃《そろ》えて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙《しょかんようし》だの鋏《はさみ》だの書物だのが彼の眼についた。それは先刻《さっき》鞄《かばん》へ入れて彼がここへ持って来たものであった。
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」
 お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。

        四十四

 津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
 不審よりも不平な顔をした彼が、向《むき》を変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階の床《ゆか》が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
 この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。

「断ったのに是非来いっていうのよ」
「しかし……」
 彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速《じんそく》に働らいてくれなかった。
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢《わからずや》ね」
 津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究《ついきゅう》していいか見当《けんとう》がつかなかった。
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
 彼女の眉《まゆ》がさもさも厭そうに動いた。
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」
 不幸にして津田にはその変なところが明暸《めいりょう》に云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
 津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関《かか》わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つの我《が》が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
 お延は微《かす》かな溜息《ためいき》を洩《も》らしてそっと立ち上った。いったん閉《た》て切《き》った障子《しょうじ》をまた開けて、南向の縁側《えんがわ》へ出た彼女は、手摺《てすり》の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干《ものほし》に隙間《すきま》なく吊《つる》されたワイ襯衣《シャツ》だのシーツだのが、先刻《さっき》見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
 お延が小さな声で独《ひと》りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然|籠《かご》の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍《そば》に縛《しば》りつけておくのが少し可哀相《かわいそう》になった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂《つぎほ》のないのに困った。お延も欄干《らんかん》に身を倚《よ》せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
 そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上《あが》って来た。
「どうもお待遠さま」
 津田の膳《ぜん》には二個の鶏卵《けいらん》と一合のソップと麺麭《パン》がついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
 津田は床の上に腹這《はらばい》になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」
 お延はすぐ肉匙《フォーク》の手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止《よ》せとおっしゃれば止すわ」
「大変柔順だな」
「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊《き》いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の
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